原作を読んでみた プロト・パスプア『1984年1001月』

※簡易的な文章にて失礼します

正直、よくわからない作品だった。全体にぼんやりしているように思った。ストーリー自体はわかるのだが、登場人物がなぜそのように行動しているのかが理解できなかったのだ。また、後半の暴力シーンは長すぎると思ったし、暴力によって変節を強いる様は、現在想定しうる監視管理社会あり方としては馴染まないように思った。

私は本作の原作であるジョージ・オーウェル『一九八四年』を読んでいない。原作ではどう描かれているのかが気になり、「作品を観、かつ原作を読んでいる人」に感想を聞いた。そこから原作についての見解がわかれていることを知って謎が深まり、「原作を読んだ人(作品は観ていない)」にも教えを乞うた。

「これこそがスッキリ回答!」と思えるものもあったが、違う方に尋ねる度に違う見解が出て、ああついに、原作を読むことにした。仕事上読まねばならない本が山積みだというのに。

以下は原作『一九八四年』を読んで、『1984年1001月』を思い出しつつ考えたことです。
原作を読んでいない人には何がなにやら、だと思いますが悪しからず。

※『一九八四年』は高橋 和久訳のハヤカワepi文庫版(新訳版)を読みました

——————–
◎原作は3部構成。第一部では、社会の監視管理状況、そこに生きる主人公がいつも神経をとがらせ、表情ひとつ変えないよう、ふるまいに落ち度がないよう暮らしていることが描写されている。割かれているページ数から、ストーリーが動く前にこの前提を伝えることがとても重要であることがわかる。

※私には、これはアイロニーとしてでも「平穏な社会」とは言いがたいように思う。主人公の精神は自らのうちに作った思考の檻にとらわれながらも、そこから抜け出したくて足掻き続けているように感じた

◎主人公は監視管理社会における「目覚めたる者」ではなく、普通の社会に生まれ、社会が変革していく中で思考改変の檻を架せられた者として描かれている。変革前の社会をほとんど忘れていながら、そのイメージの断片を持ち、隙あらば蘇らせることにチャレンジしている。

◎ブーツの生産高が改編されていて生産実態が掴めない様は、実態経済と乖離したところで「金が金を呼ぶ」という状況になっている現在の社会に通じるかも?

◎戦況など諸々、「あったことがなかったことに、なかったことがあったことに」なる社会は、今の日本の状況に通じる。

◎「二重思考」の考え方は非常にわかりにくい。東西冷戦初期にはこのような面倒な手法にリアルな恐怖感があったのだろうか。「矛盾を理解しつつ自ら思考を改変する」よりも、「矛盾に気付かずにいつのまにか違う考えになってしまう」ほうがリアリティがあるのでは。「自らわかってて変わるのが怖い」ということ?? 意識せずに変わるのも怖いと思うけれど。

◎命じられたわけではないのに管理監視社会の規範に従う様子は、忖度文化の極まった姿であると感じた。忖度か死か、という怯えの蔓延した社会。

◎「二分感憎悪」はパンとサーカスの「サーカス」だった。コロナ自粛下でのSNS炎上にも相似たり。

◎主人公が記録改変作業にやりがいを感じている様子は、例えば、何のためのゲーム、何のための仕事、何のための人生かを忘れて目の前のプレイに熱中する人間の様子を描いていて興味深い。私たちはそれが「楽しい」と感じる。その「楽しい」の背景にも搾取や差別や環境汚染、社会悪があることは考えないのだ。
コロナ禍で私やあなたの活動が縮小した結果、二酸化炭素排出力が減ったのだとしたら。「私やあなたの活動」は、どれほど必要なものなのだろうか。

◎主人公が生きているのは、芸術や生殖欲求が否定されたエリートの社会。しかしながら、人口の85%を締めるプロールは生を謳歌し歌や小説を楽しんでいる。古道具屋は古き良き豊かな時代を忍ぶものとして登場している。プロト・パスプア版ではなぜこの「芸術」の扱いをフィーチャーしなかったのだろう。
主人公は抑圧下でも美しいものに心引かれ、生殖欲求の充足によって「生」を取り戻す。生殖欲求は生の欲望だ。
あちこちに不具合を抱え始めたくたびれた中年男が、若い女に「好き」と言われたことで、生きていたいという欲望が込み上げる。そして体制に抗うことになっていく。この部分こそ劇的な変化だと感じた。

◎「権力の目的は権力」ということあるのだろうか? 権力者とは多かれ少なかれ、己の欲望を満たす方向にも走るものではないか? 「他人を支配する権力は相手を苦しめることによって行使される」ということはあるかもしれないが。
歴史上のどんな悪事も善の建前を持っていたのではと思うけれども、オーウェルの時代には純粋な権力欲・支配欲のみの世界がリアリティを持っていたのだろうか。
プロト・パスプア版ではこの部分に焦点を当てていたと思うが、絶対悪が支配する世界というのはどうにもチープに思える。世界も人間も、もっと複雑なのではないか。

◎この作品を演劇化するのはとても難しいと思った。
——————–
 
 
2021年3月16日観劇 カタリナスタジオ

text by 瞑想子

SNSでもご購読できます。