演劇を映像で観るということ② 劇団チョコレートケーキ『帰還不能点』

映像配信で観たほうが楽しめる、という演劇に出会ってしまった。

劇団チョコレートケーキ『帰還不能点』は、アメリカと戦争するとどうなるかを戦前にシミュレーションした「模擬内閣」のメンバー9名が、戦後に同窓会的に集まってきて繰り広げられる物語。
酒が入って興が乗り、開戦に至る鍵となったいくつものシーンをメンバーが即興的に演じ継いで、ついに「もはや開戦の流れは止められない」という帰還不能点に至り、それを見つめ直したときにメンバーに変化がーー、と展開する。

最初に観たときは小一時間くらい、何がなんだかわからなかった(上演時間2時間5分)。
ド頭は何のシーンか理解できず、居酒屋(小料理屋?)に三々五々集まってきたところからは意味を掴めたものの、9名の男性俳優とその役を把握できないうちに、ワンシーンずつの劇中劇の挟み込みが始まってしまう。しかも、その劇中劇の役(例えば平沼騏一郎とか)は、シーンが変わると別の役者(劇中人物)が演じるのだ。

これ、「役者の顔と名前をおおよそ把握している(から、劇中人物を把握しやすい)」「日米開戦に至る流れと主要な関係者(近衛文麿、松岡洋右、広田弘毅、米内光政、平沼騏一郎など)をだいたい把握している(から展開を理解しやすい)」という人じゃないと、物語から置き去りにされてしまうのではないだろうか(私はそうだった)。

「なるほど、こうやって歴史をみせていってるのね」ということを把握し、役柄が混乱しても物語の筋さえ押さえておけばとりあえずOKだ、とわかってからは、それなりに物語に入ることができた。しかし混乱は尾を引いていたので、作品終盤に訪れる劇的変化のカタルシスを堪能するには至らなかった。

もし、劇場での観劇だったら。
「不親切でわかりにくい作品だったなぁ」と感じ、不完全燃焼を抱えて帰宅しただろう。しかしオンライン配信は「すぐにもう一度観る」ということが可能だ。
しかも配信映像には脚本家・演出家・俳優らによるトークが付いていた。

私は俳優全員が並んだところに名前・役名のキャプションが入っているシーンをスクリーンショットし、十分に眺めた後、再度の観劇を開始した。

 ○ 

同じ演劇作品を二回観ると、多くの場合、初回のほうが面白いと感じる。たぶん、風景が同じように美しくとも、初めて見たときの不意打ちの感動のほうが大きいのと同様に。また、未熟な作品の場合はアラが目についてしまう、ということもある。

けれど『帰還不能点』は違った。
内容がわかっていて観れば、初見に意味不明だった冒頭のシーンは「模擬内閣」のシーンだとわかる(初見でわかる人はいるのだろうか? そして最後に冒頭のシーンと繋げて考えられる人は??)。
役者と役を把握して観れば、劇中劇以外の部分でそれぞれがどういった考え・性格の人間として演じられているのかがわかる(なんと見事な演じ分けだろう!)。そして、それがわかってこその「劇的変化のカタルシス」だ。

劇中劇のある戯曲構造や俳優による演じ分けは演劇ならではのお楽しみで、映像で観ても十分に演劇的に面白い。さらに、初見では意味が掴めないから、何度でも繰り返し観ることができる映像配信のほうが楽しめる。私にとって『帰還不能点』はそういう作品だった。

劇団チョコレートケーキの作品は、過去に『治天ノ君』を観ている。また、同じ古川健脚本・日澤雄介演出の作品であるOn7『その頬、熱線に焼かれ』も観ている。両作品とも高い評価を得ているのも納得の、演劇としては高い完成度にある作品だった。

けれど、物語好きではあるけれども演劇であることにこだわりのない私は、「なぜこの内容を演劇にしたのだろう、違うスタイル(小説とか)のほうがわかりやすい・面白いのではないか」と思った。不遜にも、「とても正しいけれど私好みの演劇的な快楽が薄いなぁ、演劇を好きな人に歴史をメッセージするのにはいいのかなぁ」などとも思っていた。

トーク映像によると、『帰還不能点』の戯曲構造は「ストレートに書くと過去作品に類似していまうので」、工夫したのだという。いや、大正解なのではないか。結果、演劇でしか味わえない楽しみのある作品になっているのだから。

 ○ 

おまけに。

『帰還不能点』の映像配信には、「スタンダード版」(客席からの視点で作品を視聴できる一般的な映像)のほかに、俳優にボディカメラを装着して撮影した「アクターズカメラ版」(登場人物の目線で作品を楽しむ、カスタム映像)があった。

これが非常に面白かった。

当たり前だが、細かい演技や表情が見える。役者間の呼吸が伝わる。
「俳優には自分たちの演じている芝居がこのように体感されているのか! これはやっていて面白いだろうな」と思った。
そして、「ああだから、演劇というものの伝わらなさ加減が、演劇人にはわからないのだな」とも思った。

俳優に見えているものが、客席からは(大抵の場合は)見えない。だから、「観ている私より演じている人たちのほうが楽しいんだろうな」と思うことが間々ある。
けれど「アクターズカメラ版」のようなやり方でなら、観客も、俳優たちの「ごっこ遊び」をリアルに体感できる。
これは演劇を映像で観ることによって広がる楽しみの1つとなるのではないか。

 ○ 

演劇が、劇場という神殿に集った人たちだけが体感できる魔術であった時代は終わったのだと思う。「演劇は一回性のもの」ではあっても、その一回性は映像として記録することができる。そして撮影・編集の機材や技術の進歩によって、単なる記録を越えた魔術の再現装置とすることも可能になってきているのだ。

これは才あるものにとっては大きなチャンスだ。「地方演劇は劇評家の目にとまらないから評価されない」という嘆きを聞いたことがある。しかし映像ならば、海を越えてしかるべき人の元に届けることが可能だろう。

撮影・編集・配信という負担は増える(そして資金…)。けれど、どんなときもピンチはチャンス。演劇も、時代に合わせて変容し進化しながら、時を経ても変わらぬ普遍にアプローチしてきたはずだ。

映像配信が一般化しても、「演劇は劇場で観たい」という人は一定数いるだろう。私も、劇場でこそ観たい作品・劇場に行くという行為を娯楽としたいときはある。

けれど、スポーツ観戦において、「一体感が好きだから現地観戦したい派」と「全体を把握したいから自宅で映像観戦派」がいるように、演劇も、一体感よりも全体把握を好む客(私のような)を許容する方向に進んでくれたら、裾野は広がるのではないかと思う。
 
◎追記
ノンアルコールビールで酔うのは、微量に含まれているアルコールのせいではなく、脳がビールを飲んで酔ったときの「回路」を開いて(つないで?)酔いの状態を再現するからなのだそうだ。

同様に、演じたり踊ったりを経験している人は、舞台上のパフォーマンスを観ていて自分が舞台に立ったときの回路が開くのだと思う。だから、演じたこと・踊ったことがない人には見えないものが、舞台人には見えるのだ。

このことから、舞台芸術を演じ手のごとく理解するにはパフォーマンスを体験してみることが有効なのだとわかる。一方で、そのような経験をしない人にも伝わる圧倒的なパフォーマンスや作品もあるわけで、私はそれを見分ける目を持っていたいがために絶対に舞台には上がらない観客のままでいると決めている。

   →演劇を映像で観るということ① ナショナル・シアター・ライブ『戦火の馬』
 
 
2020年3月 映像配信にて鑑賞

text by 瞑想子

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