個人的なことだが、3月、「仮装する人の多さで有名」な卒業式に出席した。生徒入場で初っ端から、札幌市手稲区のキャラクター「ていぬ」など着ぐるみ(を着た人)が登場した。一斉に写メや動画を撮る保護者たちに囲まれて、私は「これかー!」とマスクの下でつぶやいていた。一方で、「ていぬの着ぐるみってレンタルできたの?」と考えた。後で調べると、ていぬを含めて札幌市の区のキャラクターの着ぐるみは、一定の条件下で無料で貸し出し可能ということを知った。
私はていぬの存在を知っていても、着ぐるみのレンタルについては知らなかったし、今回のようなことがなければ調べることもなかった。この話に限らず、何かアクションを受けないと、アクションを起こさないことが意外と多いと感じている。例えば、今、東日本大震災や被災地の現状を進んで知ろう、見に行こうという人はどれくらいいるんだろう。2011年の震災発生当時は、新聞を開いてもネットやテレビを見ても、震災関連のニュースであふれかえっていたが、10年経った現在は、3月11日前後にならないと目にしないことが多くなったと感じる。もちろん、被災地にあしげく通い、被災者を支援する人たちはいるけれど、一度「傍観者」となってしまうと、自ら「知ろう」とすることも忘れるのではないか。
-などということを、オンライン配信の前半(『消しゴム山』は、前後半に分かれている)を観ながら思った。しかしながら、『消しゴム山』は「震災を描いています」と声高に宣言しているわけではないし、それが一目でわかるように描いているわけではない。せりふの断片や舞台上に置かれた無数のモノを観て、「何をどう受け止めるか」と提示されているようにも捉えることができる。だから、この作品が震災ではなく全く別のテーマに見えた人もいただろう。
一応、メディア側に立つ私にとって、『消しゴム山』(前半)は当時の報道に重なって見えた。静止画のように動かない役者の姿が、写真やテレビカメラで切り取られた被災者の姿に、「洗濯機のバックフィルターが取れた」と口々に言う場面は、放射能汚染について語る専門家の姿とその専門家に群がるメディアに見えた。あれから10年、質の善し悪しは別として、新型コロナウイルスへの〝熱狂〟の方がすさまじい日々である。
さて、どうして「(前半)」などと強調しているのは、「(後半)」をしっかり観ることができなかった、というのが理由だ。『消しゴム山』のオンライン配信は、数日あるうち、「観たい!」と申し込んだ日の翌日23時59分まで見逃し配信があった。私が申し込んだ2月14日に、個人的に結構大きなことがあって、15日もずーっとワタワタしていた。心落ち着かせて観始めたのが15日22時30分…(『消しゴム山』は前後半合わせて3時間弱)。もう言い訳にしかなりません。
2月14日、オンライン配信(の見逃し配信)で観劇
text by マサコさん