「作家の覚え書き」にある通り、舞台上で時計は動いていた。「10時には終わる。」そう思いながらボクは観ていた。
実は、と言うほどのことではないが初めての「座・れら」(観劇人への招待枠ありがとうございます)。予習のため原作の戯曲を買って読んだ。古本で昭和63年発行の旧版である(3300円で買ったが後日Amazon で1000円とあり衝撃を受ける)。「重い、とてつもなく重い。」と苦しみながら読んだ。気が滅入ってしまった。この会話劇を一時間以上観るのはしんどいな、と思っていたが「てんかん」を患うジェシーを演じる小沼なつきさんの声が可愛く、「いける!」と思えたのは幸いであった。体調が良くなってきたジェシーについて、原作にはこんなことが書いてある。
今夜ほどジェシーが話し易く、人当たりの良いことはないが、今まではこうではなかったことを観客に分からせなければいけない。
努めて明るく振舞っているように見え、ちょっとおどおど、引っかかるような震える声はそれを意識していたのだろう。上手いな、と思った。だが想定内でもあった。ボクには鬱病の友人がいるが、小沼さんの話し方はその友人と似たものがあったからだ。原作を読むと会話はすれ違い、自殺する理由も分かるようで今一納得できない。けれど、そこに「鬱」を当てはめるとボク的には納得できるのだ(誤解を恐れずにいうと)。ネット検索をしてみた。あるサイトによると「てんかん」の患者さんは約3分の1の割合で鬱病を発症するらしい。劇中に出てきた発作を抑えるフェノバルビタールは寝つきを良くしたり、不安や緊張をやわらげる作用がある。なるほどと思った。フィクションではあるが、フェノバルビタールにより鬱の状態が良くなったのでは?とボクは考えたのだ。
うつの場合、自殺衝動などが起こるもっとも危険な状態は、症状がいちばん進んだどん底の時期ではない。むしろ、どん底から這い上がり、ようやく回復のきざしが見えてくる時期、このときがいちばん危ない。どん底のときには、自分で自分を抹殺しようとする意志すら起こらないからだ。 うつの場合はやや快方に向かうと、自分の現状の惨めさというものが、ある程度見えてくる。そうすると「なんと情けない」という思いが強くなり、発作的な行動を招いてしまうのである。
谷沢永一『人間、「うつ」でも生きられる』
繰り返す。フィクションではあるが、自殺の理由というか原因を「鬱」によるものとするのが(ピタリとはいかないが)ボク的には一番しっくりとくる。だが本来の見方はアメリカ文学者で元お茶の水女子大学教授の小池美佐子氏のものが正当のようである。
ところで、母と娘は、夫無し、息子あり、という意味では同格の女たちである。それが、一方は死に、もう一方は生き続ける。その違いはなにか。大きく見ると、実は、劇中問われ疑問を投げかけられているのは、母の生き方である。これという考えもなく、働きもせず、無為の人生を送る伝統的な母の生き方である。つまり、娘は自死を選択することで、母の生き方に「否」を突き付けた、と言いかえてもよい。その問いは、もちろん、女性運動が、1960年代後半以来、意識向上運動(❝consciousness raising❞)などの草の根の、日常の、地道な活動をとおして、あるいは華々しい法廷闘争や政治運動をとおして、積み重ねてきた行動にまっすぐにつながるものであることは言うまでもない。 『アメリカ演劇:21世紀への胎動』(ネットで読めます)
「無為の人生を送る伝統的な母の生き方」というのはかなり侮蔑的な表現だと思うが、原作の微妙にかみ合わない会話と遠回しな表現の裏にあるものが、母の生き方に対する「否」であるのは分かる気がする。けれど上演にあたり戯曲には手が加えられ(ジェシー像の解釈が良い人すぎる?)、原作に比べるとマイルドなものになっていると思う。原作では母の生き方に対する強烈な「否」により、説得は絶対無理!と思えるのだが観劇中は「説得できるかも?」とさえ思ってしまった(それを説明するのはとても大変なので是非原作を読んでほしい)。細かい点をあげればきりがないが、削られたり手を加えられてストーリー的に気になった点は以下の通り。
ジェシー 「イエスだって自殺よ、わたしに言わせりゃ。」
※削られたがこの辺のキリスト教批判が「クリスマス」にかかわっているのかも?「訳者あとがき」には作者のエピソードが紹介され、「人形を持ってツリーの下に立たされ写真を撮られるのがいやだった」とある。
就職をすすめ経理をやればと言うママに、
ジェシー 「誰も検査してないのよ。」
ママ 「パパが死んだ時、検査が入ったわよ。」
ジェシー 「それで帳簿が持っていかれちゃったんじゃないの。」 ※削られたがパパは自殺したとする解釈がある。
終盤のシーン、今作では
ママ「ずっとあんたと居たのに。そんなだったなんて分からなかった。」(ボクの記憶による) 原作では
ママ「ずっとあんたと居たのに。そんなに孤独だったなんて分かるわけないじゃない!」 ※なぜ「孤独」という表現を使わなかったのか気になった。
まとめに入る。この作品は会話劇ではあるが、時計のように舞台装置がかなり重要な位置を占めると思う。「作家の覚え書き」には次の文もあった。
ここは脅威と約束の場なのである。このドアはありきたりのドアだが、開いた先は全くの「無」につながっている。
ドアが発する負のオーラに、ドアが開くたびに見える暗闇に、ボクは怯えた。
2021年11月14日(日)15:00
扇谷記念スタジオ・シアターZOOにて観劇
text by S・T