より明示化された過渡期 ーOrgofA『ひびそい』

OrgofAの『ひびそい』をコンカリーニョで鑑賞。

俳優でもある飛世早哉香さんが代表をつとめるOrgofAは、おそらく過去の公演については既存戯曲で行なっていた気がする。とは言っても常に「今の社会」を何らかの形で意識した戯曲を用いて公演を行なっている印象がある。そういった意味ではその時見なければ意味を持たない(悪い言い方をすれば風化してしまいがちな)テーマを扱っていおり、繰り返し見られる再現芸術ではない「演劇」という表現をうまく生かしている印象がある。

今回の『ひびそい』は性的少数者を取り扱った初のオリジナル作品。女男女という3人兄弟の長男が男性と結婚することが決まり巻き起こる物語、と同時に次女の結婚もまもなくでありそこでも問題が起きる。

舞台セットは非常に簡素で、登場する人物の衣装も含めて基本白を軸に表現されている。リアリティのある内容でややもすると非常に重い作品になりそうなところだが、空間から受ける印象が現実的ではないため、良い意味で中和された状態で観ることがができた。

2021年現在、性の多様性を取り巻く諸問題は過渡期にあると言える。それ意外にも多くの「人」を取り巻く価値観は過渡期にあって、日々変化している印象がある。それは性的少数者のことのみならず女性を取り巻く問題、見た目に関する問題など本当に様々なものが過渡期にあるように思う。「古い価値観」と「新しい価値観」の対峙というわかりやすい構図であれば問題はシンプルかもしれないが、現実はそうではない。

この作品は「結婚」という制度を取り巻く「幸せ」についてを軸に「家族」という関係性が描かれていた。過渡期であるからこそ全員に共通する考え方は薄らいでいき、それぞれが描く理想の「結婚」「幸せ」「家族」はどれも同じにはならない。それでもなお寄り添って生きようとする家族やパートナーは相手を理解することができるのか。そして理解できたとしても受け入れることができるだろうか。

まだしばらくは続くかもしれない過渡期の中、旧来の制度や価値観の中で生きづらさを描いた作品が話題になることが多いが、この作品は長女という狭間に立たされた存在がいることで、より「今」が如実に描かれた作品のように思えた。

個人的にはこのあたりの問題については興味はあれど、あまり詳しくとは言えない。現在行われている同性婚違憲訴訟あたりがこの物語を描くきっかけになっているのではと思う。同性婚問題を耳にすると、そもそも婚姻関係のみに与えられる権利を考えなければいけないのではと思う部分もある。それは同時に、家族のあり方、家族という存在意義にも疑問を生じさせる。そういった部分は主題として描かれてはおらず、前提として疑問を持たない形で描かれていた。それには多少残念に思ったのだが、それらも含めてしまうと問題が複雑化しすぎてしまい、これくらいがちょうど良いのかもしれない。

そういった描ききれない部分を考えるキーとしてゲイバーのマスターが存在していたように思う。物語の主軸ではないものの、3兄弟とそれと密接に関わる人物たちが、少なくとも共有している価値観の外の存在として彼がいることで、今の状況が単純ではないことを気づかせてくれる一助となっていたような気がする。

もはや不特定多数の鑑賞者全員が持つ「普遍的な価値観」を頼りにした表現は今後とても難しくなっていくように思う。考えや思想をストレートに発信しなくとも、作り手の問題意識や価値観は見え隠れする。『ひびそい』のあらすじで「兄弟」を、漢字ではなく平仮名で表記していることもその現れだろう。

そういった中、作り手達がどのようなものを作っていくのか。ある意味非常に楽しみな時代である。

text by kazita

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