コロナ禍、演劇をはじめ声に出してコトバを発することが難しくなった一方で、SNSにあふれるコトバの海。この作品はコトバとは何か考え、言葉を想う機会を与えてくれる。
シェークスピア、プロメテウス、星の王子さま、と私の好きなものからスバリ私の好きな言葉が飛び出てきて、あ、同じところが好きなんだ、と嬉しくなったり、冒頭から引用される、「誰もいない森で大木が倒れたら、倒れた音はしなかったということか」というレトリックは、私も数年前に札幌演劇シーズンの感想文で使いました〜と得意になったり、野田秀樹氏に親近感を感じた。
とはいえ、私は必ずしも野田作品のファンではない。いくつも受賞している作品と演出家に失礼だが、まず野田氏自身をはじめ何人かの役者の声の張り上げ具合に疲れる。高橋一生と橋爪功のサラリとした発声が、肩の力が抜けていてホッとした。それに最後あのクライマックスにもってくるなら2時間以上は長い。前半、盛り込み過ぎの感じもする。いや高明な劇作家の作品に不満を申し立てても、おいおい、アンタがわかってないからだ、とお叱りを受けるだけか。でもインタビューで、橋爪功氏は、「日本の演劇において野田が作ってきた芝居は稀有なものだと思うが、それをきちんと批判、批評して演劇人が共有していくことが大事」とやや物言いたげに言っているし、野田氏もそれを受けて「批評する力を日本文化は失っている」と述べておられるので、敢えて恥を承知で正直な感想を書いておこう。
モヤモヤその1。野田秀樹扮するタイトルロール「フェイクスピア」はフィクションの権化なのか。それともSNSやテレビにあるいわゆるフェイクニュースみたいなものか。フィクションの言葉は全てフェイクだということなら、それはあまりに人間の想像力を過小評価しているし、フィクションとフェイクは違う。Fakeは、「本物ではない、偽の、騙しの」という意味だが、Fictionは「想像された物語、作られたもの」で、実際の物語ではないにしても、経験が反映されていたり、その中には人間や世の中の真実がある。古典文学の言葉、現代SNSの言葉、実際に発せられた言葉、言葉は多様だ。その価値やインパクトは、受け取る側の問題なのだ。ならば「フェイクスピア」の位置付けは何なのか。まがい物のシェークスピア、駄作ということなのか。匿名、フェイクニュースのツイートか、単なる語呂合わせか。結局、戯曲の台詞は、現実の死の間際の言葉に及ばないと言いたいのか。
モヤモヤその2。芝居の始まりと終わりに、白石加代子氏が素になって「白石加代子です」と挨拶するのは、非常に興醒めだった。オーディエンスを現実に引き戻してそこに何の意味があるのか。
以降はモヤモヤを吹き飛ばすほど感動したクライマックスシーンについてだが、ネタバレなので、知りたくない人は読まないで。
1985年の日航機墜落事故で残された操縦室のボイスレコーダーの実際の言葉から、クライマックスのセリフができている。私のような世代には衝撃的な航空事故として記憶に焼き付いている事故であり、今でもよく覚えている。犠牲者には有名人、経済人も含まれ、様々なドラマがニュースでも映画でも語り継がれた。この墜落までの機内、コックピットのシーンが、緊迫感に満ちて舞台で表現される。アンサンブルが見事だったし、高橋一生の機長役は、実に自然で素晴らしかった。彼だからできる、と野田氏もこのシーンのワークショップで確信したらしい。飛行機を制御しようとする「頭をあげろ」というフレーズが、リフレインされる。私はむしろクライマックス前半の「ダメかも知れんね、これは」というセリフが胸に刺さった。機長が吐いた唯一弱気な言葉だ。これを高橋一生が実に自然に、冷静に、かつ必死で口にする。その後は、懸命に制御を命じる言葉だけが飛び交う。死が頭をよぎっただろう、家族の顔が浮かんだだろう、しかしボイスレコーダーに恐怖の声はない、家族の名を呼ぶ声はない。
こういう史上の大惨事という素材の使用は、安易にオーディエンスの共感を得る一面もあるが、野田氏いわく、YouTubeなどでスリラーっぽく伝えられるより、戯曲に残したいと思ったとのこと。なるほど、よかった。もちろんYouTubeで聞いて感動する人もいるだろうし、デジタルの発信が必ずしも低俗になるわけではない。言葉が放たれたら、あとは受け取る者の感性だから。しかし、戯曲として書かれた言葉には永遠の命が芽吹く。演劇人によって、声にならなかった言葉も伝えられていく。
NODA MAP 第24回公演@東京芸術劇場プレイハウス
2022年2月23日〜2月25日配信にて自宅で複数回視聴
text by やすみん