「ら」というもの 範宙遊泳『バナナの花は食べられる』

先日、バンド「GRAPEVINE(グレイプバイン)」のギター・ボーカル田中和将が書いたエッセイ「群れずに集まる」を読んだ。文芸雑誌「文學界」の2020年7月号に掲載された作品で、来年刊行される高校の国語の教科書に掲載されるという。庭の木に巣を作ったキジバトの成長を見守りながら、コロナ禍のバンド事情や生業としている音楽、音楽を含むパフォーマンス全体への風潮や心情について綴っている。私はこのエッセイで「キジバトは群れない」ことを知った。群れるのが苦手でも会社という集団に属し、いろいろな恩恵を受けつつも様々な縛りをうざいなと思うこともありながら、そこから離れることができずに生きている。私も「会社の社員ら」である。

範宙遊泳の『バナナの花は食べられる』の登場人物は、日が当たらないところで生きている人々だ。アルコール中毒で前科一犯の「穴蔵の腐ったバナナ(穴ちゃん)」、マッチングアプリでサクラをやっている「百三一桜」、体を売っている「ちゃんちゃん」。3人とも有名私立大を中退していて、未だ人生のピークが見えていないように見える。とはいえ、そんな3人がマッチングアプリを介して出会い、お互いの本当の名前も知らないまま、「俺ら」になっていく。穴ちゃんが「アルコール依存症の会」で出会ったアリサや、言葉を発せない代わりにスマホの音声アプリで会話をする「首ちゃん」も、「俺ら」に入ってくる。彼らの「ら」の効果は、探偵会社を作ったり、心理関係の資格を取ろうと勉強を始めたりと、彼らを真っ当な(だと言われるであろう)方向に誘う。物語は「良かったね」にならないこともあるけれど、彼らにとって「ら」という存在は、「ふっかつのじゅもん」のようにも見えた。とはいえ、そこは3時間に迫る上演の一部分でしかない。

範宙遊泳を主宰する山本卓卓は、この戯曲で第66回岸田國士戯曲賞を受賞した。期間限定で戯曲が公開されていた時に一気に読んだのだけど、上演を観た時とのイメージがけっこう違った。映像の方が、なかなかにえぐい、という印象が強い。それは役者が演じているというのもあるが、アウトローな人たちがやけにポップだし、前向きだし、「生きている」感が出ていた。なのに、彼らが置かれた状況は前述した通りである。心がざわつくには充分すぎる。

『バナナの花は食べられる』は期間限定で無料公開されていたが、現在はYouTubeでシーン1のみを観ることができる。あと、過去に上演した作品もYouTubeで公開している。範宙遊泳を知りたい方は、ぜひ。

念のため、田中和将の「群れずに集まる」のURLを貼っておく。

文藝春秋のウェブメディア「本の話」より

https://books.bunshun.jp/articles/-/5659

 

2022/5/13 無料公開時にパソコンで視聴

text by マサコさん

SNSでもご購読できます。