宗教を描く難しさ 座・れら『アンネの日記』

他に予定もあり「3500円は出せないなー」と思っていた。チケット代の話だ。名前だけなら誰でも知っている『アンネの日記』。ボクは読んだことが無かったし、ましてや『夜と霧』を読んだ事もない。歴史の知識としては「ホロコーストがあった」ことだけしか知らない。つまり「虐殺があった」ということだけで詳細は全く知らない。そこで教養の一つになればと戯曲を買った。文藝春秋から昭和三十三年十二月三十日に発行された『戯曲 アンネの日記』だ。バッドエンドだと知っているからだろうか?戯曲としては読みやすかったが、驚いたのは宗教色が強かったこと。確かにユダヤ人の物語でユダヤ教を無視することはナンセンスだろう。と言ってもユダヤ教の知識は殆ど無く、ハヌカ祭のことも初めて知った。戯曲には「ハヌカ」の楽譜があったがボクは楽譜が読めない。映画で確認できるかな?と思ったがアーレントの言葉がボクの脳裏をよぎる。

「ドラマが完全に生命を与えられるのは、やはり、それが劇場で演じられるときである。物語の筋を再演する俳優と語り手だけが、物語そのものの意味、いやむしろ、物語の中に姿を現す「主人公」の意味を、完全に伝達することができるからである。」

ハンナ・アーレント『人間の条件』

ドイツ出身でユダヤ人の哲学者であるアーレントはアメリカに亡命し事なきを得た。そのアーレントがそう言うなら観に行ってやろうじゃないかと自分を納得させた(ちなみにユダヤ人ではないが「ドイツのキリスト者とともに生きなければなりません」とアメリカにいたのにドイツに戻り、反ナチ運動に参加した人物もいる。ボンヘッファーという牧師だ。その結果彼は処刑されることとなる)。仕事帰りにレーズンバターロールを3個頬張り劇場に滑り込んだ。タンパク質も取りたかったが時間が無い。結果、空腹と冷えを堪えながらの観劇で集中しきれず、多少の記憶違いはご容赦いただきたい。

さて開演。7回目の上演で疲労が溜まっているのか役者さんからセリフがスムーズに出てこないように感じた。内容は始めから終わりまで概ねボクが読んだ戯曲通り。細かい所だが「この猫、かけてやつたの?」というセリフは「去勢」と分かりやすくなっていた(単に版の違いかもしれないが)。ただミスキャストと言うか、合う役者さんがいなかったのだろうな、と思える人物はいた。その人物設定にかかわるセリフも消されていたと思う。しかし設定を変えても、その後のセリフを変えていないのだから違和感は大きかった。戯曲を読んでいない人には気にならなかった事かもしれないが。

本筋に戻る。宗教色が強いとボクは言ったが、序盤アンネとペーターが衣服から星の印を剥がす場面がある。ユダヤ人は印をつけることを義務付けられているのだ。ペーターは剥がした星を簡単にストーブへ放り込むのだがアンネは躊躇する。その星は「聖者ダビデの星」だからだ(本公演では「聖者」は無かったと思う)。二人における信仰の程度の違いが分かりやすく、終盤の信仰問答にもつながる場面である。だが、とてもあっさりとしていた。子どもだから、ではなく子どもだからこその純粋さをもう少し演技に込めても良かったのでは?と思った。

次にハヌカ祭の場面。本来であればこの場面を目当てにボクは観劇したと言って良い。しかし空腹と冷えのピークでフランク夫人が詩篇を読んだかさえも記憶に無い。「うーん、感動的でしたね」というデュッセルのセリフで我に返る。気を取り直してハヌカの合唱シーン。侵入者である泥棒にユダヤ人が潜伏していると気づかれたんじゃないかと不安におののきながら歌う。最初は小声で、しかし恐怖を拭い去ろうとするかのように一同の声が大きくなっていく。戯曲には「歌声に、次第に、元気が出てくると・・・」とあるのだが、隠れる気が無いんじゃないかと思うほどの熱唱になる。恐怖心を表したいと思ったのだろうが、あれでは狂信者の群れのようにも見える。もっと祈るような感じで歌ってほしかった、と思うのだがいかがだろうか。

そして終盤でのアンネとペーターの信仰にかかわる問答。戯曲を書いたハケット夫妻も苦労した部分ではないだろうか。流れが強引すぎるのだ。考えてみれば当然で、読んだことは無いがアンネが書いた日記はそれなりの分量があるはず。そこからエッセンスを抽出し戯曲にまとめるのは難しかっただろう。「僕は、今、ここで、見たいんだよ、・・・・千年も後のことなんて。」このペーターのセリフはイエスを認めず救世主を待ち続けるユダヤ教徒に対する皮肉だろうか。実際ペーターは軽い気持ちでキリスト教徒に改宗することも口にしていたようだ。安倍元首相銃撃事件でクローズアップされた宗教二世の問題。ユダヤ教の場合は二世三世どころの話ではないが、同じような問題はあったのかもしれない。いずれにしてもこの問答を理解するためには「日記」を読むことが必要であろう。(宗教二世の問題については2019年の11月、COWS『フォーゲット・ミー・ノット』の感想で少々触れたが未だに有効と思える回答をボクは持っていない)

「ほんとうに、あたしは、慙愧に耐えないんですよ。」※戯曲には堪えないではなく耐えないとあった

一人生き残ったフランクのセリフで物語は終わる。家族や仲間を守ろうとしたフランクが何故「慙愧に耐えない」のか正直分からなかった。今でも確信はないが「亡命」という選択肢を選ばなかった、ということだろう。人間の善性を信じたアンネ。子どもは、そして平時はそれでよい。しかし家族を守る立場にあった自分が非常事態の中でそれではいけなかったのだ、と思ったのだろう。実際劇中ファン・ダーンが言うように亡命のチャンスは色んな人々にあったのかもしれない。亡命できなかったのではなく亡命しなかった人も多くいたのだと思う。だからこそ「慙愧に耐えない」のだ。見通しの甘かった自分が許せなかったのだ。それなら分かる、とボクは思った。

見通しを誤ることはよくある。ドイツの1920年代はインフレに苦しんだ。10万マルクの生命保険が満期になったとき1ポンドのイチゴしか買えなかったという話もある。さぞかし有能な政治家が望まれたことだろう。比較にならないが現在の日本も物価の上昇に苦しんでいる。有能に思える政治家を私たちは選んでいくのだろう。しかしその選択が独裁者を生み出すことになるかもしれない。景気を回復させていったヒットラーのように。

人はパンのみにて生きるにあらず。

全体主義を防ぐため、覚悟を求められているのは市井に生きる私たちなのかもしれない。

 

追記:この日8/4、中国が「台湾封鎖」の大規模な演習を行う。演習は7日まで続くとの報道有り。

 

2022年8月4日(木)19:00

札幌市こどもの劇場やまびこ座にて観劇

text by S・T

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