4日間の仕込み、リハーサルを経て小さな劇空間で幕を上げた最終公演は、150分を一気に駆け抜けた。
暗転の中に佇む少女。その独白から、照明の入った舞台には溌溂とした少女たちの学校生活が描かれる。その動き、会話は現代とほぼ同じ。いつの時代の少女たちも輝いている。パネルのない平場の舞台に、簡単な道具で教室や廊下を表現し、学校生活の楽しい時間を繰り広げる。
14人の少女たちが繰り広げるシーンに息を呑む暇もない。舞台に躍動し、走り抜け、台詞が次から次へと被っていく。沖縄で撮影されたという映像がその台詞の意味を増幅させていく。
本作の演出は全編を通じて、同じ台詞が繰り返されていくリフレインの手法。しかし、持っている意味はシーンが進むにつれて変わっていく。寸分の狂いのない役者の動きは演出の藤田によるものだが、役者の力量ということも大きい。これほどきっかけの多い芝居というのも珍しく、どれ一つをとっても芝居の展開を破綻させる可能性もあるが、オーデションを勝ち抜いた役者たちは極自然にこなしていく。
少女たちの明るい日常が次から次へと展開され、やがて世相は沖縄戦へと突き進む。一人、また一人と戦火に倒れていく少女たち-。前半の明るいシーンとは対照的に、おどろおどろしい場面が続く。眼を背けたくなるような表現、耳を塞ぎたくなるような台詞も、舞台上から客席へと投げつけられていく。観客はそれを受け止め、舞台上へと投げ返していくことを続けなければならない。観客席が舞台に引き込まれて静かになっていくのと対照的に、舞台は動きが激しく、トーンも上がっていく。音響、照明、映像も劇的に強くなっていく。まるで舞台と客席の感覚や感情が対照的に同化していくようだ。
やがて一人の少女のモノローグがそれまでの物語を収斂させていく。沖縄戦末期という短い時間の中で、誰もが迷い、苦しみ、惑う。どの少女も、どこにでもいる少女だったにもかかわらず、戦争は彼女たちの意思を無視して、力ずくでその人生を奪い取っていく。それでも生きていく人がいる。
カーテンコールの後、客席は重たいテーマを十分に受け取りながらも一種の爽やかさが見られた。これは、演劇というものの持つ特殊な伝達表現を、観客がストレートに受け取ったからではなかったか。思いを深くするのは観劇中ではなく、その後なのだろう。
年を追うごとに先の戦争は風化している。私のように戦争を知らない世代が圧倒的多数になり、メディアも一年を通じて戦争を取り上げることはない。悲惨な体験をした人々は、その体験や記憶と共に消えつつあるのが現代だろう。
一方で、第二次世界大戦当時と同じような血みどろの戦争も現代には起きている。一人の独裁者の導く方向は決して正しいといえるものではない。だが、ここまで情報が溢れている社会になっても、人は武器を手に、人に向かって銃口を突き付けている。それは決してデジタルではなく、アナログなのだ。
なにも沖縄戦は沖縄だけのことではなく、全国・全世界の津々浦々で誰もが見続けなければならない歴史の一齣であろう。どの家庭でも数代遡れば先の戦争で倒れた先祖がいよう。戦火に倒れた人々の声を演劇という手法で見つめ直し、「今だからこそ見続けなくてはいけない」という藤田の意図は、この舞台上に明確に表現されていた。
再々演となる本公演の全国ツアーの最終日は、ド田舎の小さな劇場で打ち上げられた。作・演出の藤田貴大は伊達市出身の劇作家である。初演と再演は北海道内での上演がなかった。再々演にしてようやく北海道での上演が叶ったが、札幌での上演はなく、藤田の出身地である伊達市と士別市朝日町で、それぞれ1回だけの公演となった。
原作を今日マチ子の漫画から採り、演劇作品へと昇華させたのは藤田の力量による。初演の際にも絶大な好評を得た。出世作の一つといってもいいだろう。残念ながら私は、その公演も再演も観ることは叶わなかった。
あさひサンライズホールでは、マームとジプシーのファミリー向けの作品「めにみえないみみにしたい(2020)」「かがみ まど とびら(2021)」を上演した縁もあり、「cocoon」のツアーについても情報を得ることができたということである。待望の芝居を、この小さな劇場の舞台に載せる千載一遇の機会だったと思う。
音響、照明、映像という道具を効果的に使い、舞台セットらしいもののない、ほぼ平面の舞台上に芝居を描き出した本作。映像作品とは違うライヴの瞬間。更に再演される機会があるかどうかはわからないが、時間を積み重ねたのちに新たな「cocoon」を観る機会があるとすれば、それは何時のことになるのだろうか。その時に私はどんな覚悟で客席に座ることになるのだろうか。しばしそれを考えないわけにはいかない時間だった。
2022年9月23日・あさひサンライズホール
あさひサンライズホール館長 漢幸雄
text by ゲスト投稿