<10月9日 市立札幌藻岩 みなそこへいけ>
何かの時、札幌山の手・中禰先生に「日本史に出てくる人物と出来事を覚えられない」と明かしたことがある。その際、「それらを物語のようにとらえるとわかりやすくなる」とありがたいアドバイスをいただいたのだけど、未だに何一つ進歩していない。
物語は、「平家」の血を引く少年トキヒトのタイムスリップから始まる。しかも、そこは源平合戦の最中で、トキヒトは平家の「帝」として三種の神器を持ち、平家のご一行とともに源氏からの追っ手から逃げている。トキヒトは親しくなった家臣と、自分のオカリナと横笛を交換し、「吹けるようになったら一緒に演奏しよう」と約束をするが-。「山月記」を上演した時も同じだったが、藻岩は物語の世界感をきっちりかっちりつくって見せる。説明がなくてもわかるとか、観客に何をしているのかわかってもらうためには想像以上の労力が伴うと思うのだけど、毎回それをやってしまう藻岩すごい、の一言に尽きる。
役者では、源平合戦に放り込まれるトキヒトの適度な奔放さが印象に残った。「トキヒトだ」と否定しつつも「まあ帝でもいいか」と受け入れたのは、思春期手前の大人ぶりたい時期なのかなと想像できたし、源氏に追われている緊迫した中でのいい「和み」感を感じられた。たぶん、トキヒトのおばあちゃんの凄みは、あえて「過去」の人物とリンクさせていたと思うのだけど、「同じ顔」でも人となりが違う、という設定でも観てみたかったな。
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<10月9日 市立札幌啓北商業 つもりつもって>
パンフレットに「南参 作」とあって、「yhsの南参さんが書いた本なのか、いつのだろう?」と思ったけれど、思い出せなかった(後日、というか、今もネットで調べたけれど、なぜか「稲荷の独習数学」とかが出てくる。謎)。観た後、ホールで南参さんらしき人を見かけたのだけど、yhsで「つもりつもって」という舞台をやっていたかな…(結局、思い出せない)。さて、石狩支部の最終日は、我が家の中学生と小学生を連れて行った。その中学生が「観た(3作品)中で、一番面白かった!」とたいへん喜んでいた作品でもある。
教室で、暑さに負けてだらっとしている高校生複数人。どうやら彼女たちは演劇部員の1年生で、先輩が戻ってくるのをしばらくの間待っているらしい。先輩は、演劇大会で上演する予定の台本内容を変更するかどうか、先生と相談していて-というのが物語の前半。暑さのせいなのか、台本を変えようとしていることにムカついているからなのか、だらっとしちゃうし、アイスを買いに行ってしまう。ついでに余計なことも言っちゃったりして、「いい気分じゃない状態でひたすら待つのって、余計なことを考えちゃうよね」と同情してしまった。
こんな風に、観客の気持ちを微妙に動かしていくのが、啓北商業の持ち味の一つ。あと、じわじわとしみ出してくる役者の個性。北九州まで観に行った「ラフ・ライフ」でもそんな思いを抱いた。でも、いろいろと事情があったからそういう選択をしたのだろうけど、先輩の2年生の「姿」を観たかった。視線や体の向きがそろっていても、その先に「姿」はなく、声だけが聞こえる。2年生がどんな表情で「台本を変える」と言っていたのか、それが本意なのか苦渋の判断の上なのか、私には想像できなかった。あの場に1人立っていれば、ラストの発声練習に込められた1年生の思いが、観客に深く突き刺さったんじゃないかなと思う。
text by マサコさん