本当の主役は? Stokes/Park 『フゴッペ洞窟の翼をもつ人』

作・演出 白鳥雄介

認知症を患った母親小塚晴(北村青子)の介護に疲れた青年小塚誠太(舟木健)が、フゴッペ洞窟でシャーマンになりたかった続縄文人の幽霊ヨシパ(川合諒)と出会う物語。

ボクには芸術を理解しようとすることで、自分が人間であることを確認しているようなところがある。なぜにそんな考えを持つようになったかと考えてみると、カズオ・イシグロ氏の『わたしを離さないで』に思い至った。とある施設で育てられる子供たちはクローン人間で、将来的には移植のために臓器を提供させられ死にゆく運命にあるという物語だ。2005年の作品で邦訳は2006年である(ドラマは観ていない)。施設を運営する大人たちが子供たちの待遇改善のために行ったのは詩や絵を描かせることだった。

「あなた方にも魂が━━心が━━あることが、そこに見えると思ったからです」

それらの作品を著名人に見せて寄付を募る。「こういう絵が描ける子供たちを、どうして人間以下などといえるでしょう」と。そういえばヤングケアラーという言葉はいつ頃から使われるようになったのだろう。『わたしを離さないで』ではケアラーを介護人と訳していた。ヤングケアラーという言葉はこの作品以後に使われるようになっていったような気がするのだがいかがだろうか?

考えてみれば弱肉強食の世界とは違い、介護も絵を描くことも人間的な営みである。他者の幸せを祈ることも。今作ではある意味現実的ではない形でヤングケアラーの問題が解決していくのだが、何時の時代の人間も本質的に変わらない、だからこそ人類が生存しつづけていると思えれば、独りで苦しまず周囲に助けを求める声を発することができるかもしれない。そう思わせる作品だと思う。

とは言ってもなかなか辛い観劇ではあった。誠太のシャツにアイロンがかかっていた。事前情報から「介護に疲れた」主人公をイメージしていたので「疲れているからアイロンをかけないと考えるのは偏見か。それともアイロン不要のシャツか。でも演出と割り切って洗いざらしの着古したシャツのほうが良いのでは?」などと考えて集中できない。それに何と言ったらいいのかベタ握り?マイムで料理をするのだが「包丁の握り方それで良いの?」と余計なところに目が行ってなかなか集中できない。「刻画むき出し?何十年前の話?発掘作業の過程は無視?誤解を招くなぁ」とか(観客のツイートによると11月11日のアフタートークで学芸員の中塚凪沙氏からは、掘りすぎると洞窟が崩壊する恐れがあるため全部は発掘されていないことが説明された模様)。辛い観劇が続く中、一息つけたのは無垢な続縄文人のショロ(内田めぐみ)が出てくる場面である。個人的には劇場の空気が途端に柔らかくなったと感じた。声のみならず足の接地すらも柔らかく感じた。

「世界が豊かでありますように!」

足を骨折してシャーマンになれなくなったヨシパの祈りが「本当のシャーマンは俺だ!」に聞こえたのはボクの心がひねくれているからだろうか。20歳で骨折したヨシパの遺体は1500年以上たったあと発掘され40歳くらいまで生きていたことが分かる。満足に動けず狩りが出来なくても仲間と助け合い生きていたのだ(さりげなくヨシパが文化英雄的な存在として描かれていたのは良かった)。続縄文人の良さが描かれているのだが、逆に言えばヨシパが死後も成仏せず祈り続けている理由が分からなくなる。友人のクンプ(平井泰成)が自分に変わってシャーマンとなり仲良く生きたはずなのでは・・・。終盤誠太の母親に諭され空に帰った場面では「単なる不成仏霊だったの?」と思わずにいられなかった。

その誠太の母親がフゴッペ洞窟に現れた場面。踏切と洞窟がつながるのは地理的に言って良いアイデアだと思うのだが、会話の内容はいかにも死んで幽霊となって現れたのかのようだった。幽霊になったから痴呆症が治ったのか?と思っていたら後程生きていることが分かりビックリ!

母親「もうあなたは祈らなくてもいいの」「誰かが伝えていくから」「みんなが空で、待ってる。」

ヨシパに語り掛ける様は全てを見通しているようで、「もしかしてヨシパのお母さんの生まれ変わり?」と思ったが「お名前を聞いてなかったわね?」との母親のセリフに「紛らわしい!」と思ったのはボクだけだろうか?(終わり際、学芸員や施設職員としてクンプとショロが現代に生まれ変わったかのような匂わせもあるが「空で待ってる」・・・んだよね?)

「不成仏霊だったの?空や星から授かった使命を果たすべく祈っていたんじゃないの?」と困惑するボクを救ったのは夏海知華(音田栞)だった。高校のダンス部仲間であり偶然洞窟で再会。介護疲れとは思わなかったけれど、誠太の様子に違和感を持っていたのだ。ダンス部では誠太に教えてもらっていた時が唯一楽しかったと語った知華。ダンス部仲間との旅行に誠太を誘い「下着は、ユニクロで買えばいいじゃん!」のセリフに、つい先日ヒートテックを購入するのにも躊躇したボクは「なんだコイツ!」と思ったが、打算も下心も何もなく一心に誠太を心配する姿は胸につまるものがあった。知華の出番は姿を消した誠太を探しに行くところで終わってしまったのだが、その存在感が舞台から消えることは無かった。場面は3年後に変わり知華は「看護師の勉強がしてみたい」と付き合っていたダンス部仲間である倉科賢太郎(山科連太郎)と別れていた。3年前は自慢話ばかりしていた倉科がすっかり落ち着いた感じに変わり、それが知華の存在の大きさを表すようでもあった。

正直いろんな要因があるけれども誠太の人生が好転したのは知華の力が大きかったと思う。主役は彼女と言って良いと思えるほどに。きっかけとしては姉(飛世早哉香)の突然の帰郷や、いんちきスピリチュアリスト(田中達也)の存在もあるけれどもね。

いろいろ勝手に言いたいことを書いてしまいましたが最後にもう一つ。有翼人の刻画は手の指が4本で、それにどんな解釈を与えるのかがボクの注目点でした。けれど、それには全くふれられなかったのが凄く残念。シャーマンを考えるうえでとても重要なポイントだと思えるので・・・。

正直観ていない方には、ちょっと何言ってるか分からないと思いますので是非アーカイブ配信をご覧ください。12月11日(日)まで視聴可能とのことです。それと言い忘れていましたが余市には西崎山環状列石という史跡がありまして、そこからはシリパ岬が良い感じで見ることができ、尚且つそのライン上にフゴッペ洞窟の施設を見ることができます。太古の昔からこの風景を見ていた人がいたのかと不思議な感覚になります。ちなみに7000年から6000年前は洞窟がある丸山から約200メートル内陸が海岸線だったらしく、丸山は海から突き出た岬の先端だったそうです。フゴッペ洞窟に行かれる際には是非西崎山にも上ってみてください。

※劇場では『JŌMON』という縄文芸術文化財団の冊子が配られていました。読んでみるとアト゜イさん、瀬川拓郎さん、茂呂剛伸さん、石田しろさんの座談が掲載されていました。故・山本多助エカシ氏の「日本人はね、アイヌ式土器というと都合が悪いから縄文土器って言ってるのさ」との言葉を紹介していました。ちょっと悲しくなりました。2019年の妖怪大縁会の感想に書いたようにボクはアイヌも和人も日本人という考え方です。冊子をお持ちの方は是非読んでいただきたいし、これを機会に色々な意見にふれていただきたいと思います。

2022年11月13日(日)13:00

演劇専用小劇場BLOCHにて観劇

text by S・T

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