脚本・演出 小西泰輔(顧問)
30代の男性が定職に就かず夢を追い続け、演劇の脚本を書き続ける物語。
パンフレットの『演出の言葉』には「夢を追い続ける人たちが、夢を追い続けるために、その勇気を奮い立たせるための物語」とあった。主人公は何気なく書いた脚本が演劇部で採用され高評価を得る。賞賛の拍手を浴びる、その成功体験が忘れられず脚本を書き続けるが望むような結果を手にすることはなかった。高校を卒業して15年。コロナ禍で公演は中止になるわ、好きな人は他の人と幸せになっちゃうわ、父親は病気になってしまうわと主人公のメンタルはボロボロだ。
主人公が書く物語は、新型コロナウイルスが蔓延した原因の一つに演劇がやり玉にあげられ、法律で演劇が禁止となった世界。しかし本当は演劇に生産性が無いというのが理由だ(主人公のように)。つまり脚本を書く中で演劇を続けるべきか否か、夢を追い続ける人間と諦めてしまった人間とで劇中議論させる構成となっている。そして主人公も登場人物の一人として脚本の世界に入り込んでしまい、物語はファンタジーに変わっていく(そのファンタジーを説得力あるものにしたのは、演劇を取り締まるドラマ・ポリスを演じた真鍋さんの力が大きかったと思う)。
「ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る、もうひとりの人間がそれを見つめる──演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ」
ピーター・ブルック『なにもない空間』からの引用が何度か使われる。『演出の言葉』からすると、やる気さえあれば衣装も舞台装置も何も無くても路上ででも演劇はできる!そう言いたいのだろう。教師が生徒に夢を追い続けろと言うことは無責任ととらえる人もいるだろうし、責任を問われたらハムレットばりに「覚悟がすべてだ!」と切って捨てるわけにもいかない。わざわざ難しいテーマに取り組むとは小西先生はしんどい道を選ぶ人だな、と思った。ピーター・ブルックからの引用を前述のように解釈したボクは、「この作品はあれだ、宮沢賢治の『告別』だ。それの小西先生版だ」と思った。
多くの侮辱や窮乏の それらを噛んで歌うのだ もしも楽器がなかったら いいかおまえはおれの弟子なのだ ちからのかぎり そらいっぱいの 光でできたパイプオルガンを弾くがいい
教師を辞める賢治が音楽の才能を認めた生徒に呼びかける詩だ。今後の人生でその才能を維持し伸ばす難しさを説く。
五年のあいだにそれを大抵無くすのだ 生活のためにけづられたり 自分でそれをなくすのだ すべての才や力や材というものは ひとにとどまるものでない ひとさえひとにとどまらぬ
と厳しくも気遣う。この『告別』と『拍手の弾丸』が重なって見えて辛いなーと思って観ておりました。で賢治が教師をやめた理由は生徒には農村を立て直すために技手になったり役所に勤めないで百姓になることを望む、しかし自分は俸給生活者をしている、それは矛盾しているから自分は百姓になる、だから皆もそうしてほしい、ということらしい。これを小西先生に勝手にあてはめると、生徒には夢を追い続けてほしい、でも自分は辛いからやーめた、とは言えなくなる。銃に弾丸を込めたがその銃口は先生自身に突き付けられている、そう思った。
だからと言っては何だが、この作品は観客の感想よりも作品に取り組んだ生徒たちの感想を聞きたいと思った。今作に込められたメッセージは先生自身に、そして生徒の皆さんに向けられているはずだからだ。そして小西先生には演劇部のビジョン、10年計画(今4年目くらい?)の進捗率を聞いてみたいと思うのだった。ちなみに卒業公演は来年3月21日とのこと。ボクは行けないので親御さんや小西先生ファンの高校生の方が作品から何を感じたか、投稿していただけると嬉しく思います。
※たまに「カーテンコールで拍手を味わったら芝居をやめられない」という話を聞くことがありますが、観る専門のボクからすると「表現すること、そのものに喜びがあるんじゃないの?自分が向上していくことに喜びがあるんじゃないの?拍手はあくまで結果じゃないの?」と思ってしまう。以前雑誌で読んだ画家へのインタビューで「画家とは何ぞや」との問いに「食えなくても絵を描く人」とあって、これ以上の答えは無いなと思いました。けれど、これはあんまり言うとそれこそ無責任になるのでお終い!
2022年12月4日(日)13:30
ターミナルプラザことにパトスにて観劇
text by S・T