ファルスは育つか?  ゴマに『デリバリーSF』

パゥピーポォズ;主催の『短編演劇祭 PACKTAG』参加作品。デリバリーによる地球人青年と宇宙人風俗嬢の交流を描く。

カタリナスタジオという聖人の名を冠する劇場ではあるが、「ゴマに」はそんな事お構いなしの下品な作品を上演した。ただ過去、カトリックやギリシア正教においては笑いの儀式があったそうなので、イエス様も喜んでおられるんじゃないかと思えた。女の子の指名から、憶えていないが聞くだけで笑えるSFがかったコースやオプションの選択に劇場が笑いの渦に包まれたことは言うまでもない。そして加熱していくプレイの末?というか計画通り?に地球人の青年が殺されるという結末も良かった。

「芸術の最高形式はファルスである、なぞと、勿体ぶって逆説を述べたいわけでは無論ないが、然し私は、悲劇や喜劇よりも同等以下に低い精神から道化が生み出されるものとは考えていない。」と言ったのは坂口安吾(『FARCEに就いて』)である。安吾を読むと、現在ゴマにの評価が今一なのを残念に思う。何か賞を獲れるんじゃないかと期待したTGRでは議論の外だったようにボクは感じたし、実際観客数も少なかった。「道化の如き代物は、芸術の埒外へ投げ捨てられているのが普通である」との安吾の嘆きがそのまま当てはまるかのようだった(安吾は『FARCEに就いて』で問題を劇だけに限らず文学全般の話とし、悲劇・喜劇・道化のカテゴリーに分け、道化を「乱痴気騒ぎに終始するところの文学」としている)。

確かにブリーフ姿が当然のゴマにであるが、何かと下品なゴマにではあるが、汚くは無い、と思っている。下ネタではあるがセクハラにはなっていない、と思う。気持ちよく笑わせてくれるから推せる、とボクは思っている。

「笑などに理由は無用、ただ何だか知らぬがおかしいと、笑っていさえすればそれでよいのだと思っているうちに、終に愚劣極まるものをもって笑わされるようになったので、これは確かに人世の進歩ではないと思う。」と柳田國男(『笑いの文学の起原』)のように考える人には、ゴマにを受け入れることは出来ないであろう。ただ、安吾と柳田の共通する点は「諷刺」を嫌ったところだ。柳田は「背後の弥次馬を悦ばせるような、浅墓な嘲りを投げているだけ」(『鳴滸の文学』)とし、安吾は「揶揄にとどまるものを諷刺という。諷刺は対象への否定から出発する。これは道化の邪道である。むしろ偽物なのである。正しい道化は人間の存在自体が孕んでいる不合理や矛盾の肯定からはじまる。」(『茶番に寄せて』)とする。

もう少し『茶番によせて』から抜粋してみよう。

「どのような不合理も矛盾もただ肯定の一手である。解決もなく、解釈もない。解決や解釈で間に合うなら、笑いの国のお世話にはならなかった筈なのである。」

「人を納得させもしないし、偉くもしない。ただゲタゲタと笑うがいいのだ。一秒さきと一秒あとに笑わなければいいのである。そのときは、笑ったことも忘れるがいい。そんなにいつまで笑いつづけていられるものじゃないことは分かりきっているのである。」

下品な笑いを否定しては人間が抱える矛盾を受け入れることが出来ない。ゴマにを観ていると、否定の諷刺ではなく肯定からの道化による笑いによって、少し優しくなれるような気がボクはするのである。そして明日への活力と、ちょっとした覚悟も。

もっと意識的に、ファルスは育てられていいように私は思うのである。(『FARCEに就いて』)

ファルスは育つのか?若手の演劇人と観客のこれからに期待しよう。ゴマにのグッズも買ってね。Peste!

※演劇祭ということで上演以外に前説、つなぎと大活躍だったゴマに。「パゥピーポォズ;とゴマに、どちらが上かハッキリさせたい!」と裁縫用のゴム?の両端に洗濯バサミをつけた物を用意。パゥピの男子共々上半身裸になり、乳首を洗濯バサミで挟んで引っ張り合う勝負が行われた。事前の打ち合わせが無かったパゥピは完全に意表を突かれ、結果は2-0でゴマにの圧勝であった。しかしこの勝負に何の意味があったのかは定かではない。

2023年1月15日(日)18:00 

カタリナスタジオにて観劇

text by S・T

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