事件を知らない方々へ 第一回わんわんズ×ゴマに合同公演 『14歳の国』

※グロい記述があるので要注意!

脚本 宮沢章夫                                                       潤色・演出 田中春彦

挟み舞台、幕間に教室の妖精さながら演者が紙おむつで仕込みをしたり、その間観客は「席替えタイム」で席を移動したりと楽しめる工夫はあったのだが、

「何で宮沢さんなの?」

この企画を知った時そう思った。宮沢氏といえば、とあるハラスメントが記憶に新しい。新しいといっても公になったのは数年前のことで、「宮沢氏によるハラスメントを知ったけど場所も人も押さえた後だから変更できない」ということは今回あり得ない。確かに白水社が発表した「岸田國士戯曲賞の運営につきまして」に実名は出てこないのだが・・・。

 

『14歳の国』について「なんか、5人の不完全な男たちがやってたら、いいなぁ〜と思ったんです」と田中さんはツイートしていたが、ボクは「ハラスメントにゆるいのか?」と正直困惑した。けれど「劇作家が暴力をふるう人であっても作品は素晴らしいから上演したい」との考え方もあるだろうし「白水社の件は宮沢さんのことじゃないですよ」との認識かもしれないのでハラスメントに関してはこの辺にしておく。

 

それから田中さんは14歳くらいの若い子たちに対して宣伝動画で次のように語った。                         「大人と子どもがね、敵対じゃなくて、分かり合えないけど、なんかお互いに可愛いなって思いやれる関係になっていったらいいんじゃないかなって。」                                                       「大人はみんなのことよくわからないことが不安なんだって、その不安が一個、この劇に出ているって僕は思うから・・・そうやって大人たちを笑いに来てほしいなって思います。」

 

田中さんが言いたいことは分からないでもないが、それを『14歳の国』の文脈から語るのには無理があると思う。『14歳の国』は「女性教諭刺殺事件」や「酒鬼薔薇聖斗事件」をベースにした作品である。生徒に注意すべきことを注意して結果生徒に刺された教師、職務を全うし殉職された教師がいた。しかし授業に遅れて入ってきた生徒を注意した教師の方を批判する論調もあるなかで、荷物検査をした教師たちを批判できても笑うことはボクにはできない。(精神科医の和田秀樹は、思春期に親や教師に秘密を持つことは発達上重要で、秘密を持つ余地を制約する荷物検査は子供の発達に悪影響を与える可能性があるとしている。『Voice平成十年5月号』「間違いだらけの教育論議」)

 

「いま読み直すと、『14歳の国』っていうのは、「14歳の中学生の国」というよりは、「十四歳化してしまった世界」みたいな、そういうタイトルにも読めちゃう。」                                                  『舞台芸術06』に掲載された宮沢氏へのインタヴューでは森山直人氏が上記のように問いかけ、それを肯定する形でインタヴューは進んでいく。かつて義務教育を受け、指導する立場になった大人たちを情けなく描くことで、特に酒鬼薔薇事件を教育の責任と印象付けるかのようだ。今作は犯行声明文の「透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐」を受けての創作なのだろう(今作は書籍になっており帯には「透明な存在のみかた」とある)。

 

社会学者の宮台真司氏は「部分的には僕も共感できてしまった彼の声明文は、聖典として語り継がれてしまいそう」(『透明な存在の不透明な悪意』)といった。しかし供述調書によると、犯行声明文は捜査の攪乱のために、自分に捜査が及ばないように少年Aが犯人像を創作して書いたのであり、学校に対する怨みや学校の教育によっての自分がこうなったとは思っていないと供述している。そのせいなのか、今作ではAの「声明文」ではなく「日記兼実験ノート」が聖典のように複数の生徒に扱われていた。

 

「ぼくはいま14歳です。そろそろ聖名をいただくための聖なる儀式『アングリ』を行う決意をしなくてはなりません。」

 

複数の生徒のノートを見るたびAの文章が書き写されている場面。連想するのは当時14歳だった人の話し。14歳というだけで大人たちから危険視されたという。事件後、少年A個人の問題か教育(ストレス)の問題なのか議論になったが、教育の問題となれば14歳というだけで周囲から冷たい視線をあびるのは当然である。ボクはA個人の問題と考えていたので、その体験談は盲点をつかれたようでショックだった。(ちなみに今作では刑法41条が出てくるがAは少年法を知らず、死刑にならないと聞いてショックを受けている。)

 

宮台氏の前掲書によるとインターネットやファックスで中学生の意見を集めたとき、かなりの数「行動は許されないが、気持ちはわかる」と答えたそうだ。だが殺意を抱くことは誰でもありうるだろうし、それを実行するかしないは大きな違いと考えるのが当然だろう。それに調書で分かったことだがAは遺体を切断後「僕の血は汚れているので、純粋な子供の血を飲めば、その汚れた血が清められる」と思い血を飲んでいる。この事実を知っても共感する子供はかなりの数いるのだろうか?Aが血を飲んだことは宮沢氏も当然知っていたことと思う(その程度の事を知らずに創作したのなら、それはそれで問題)。それにも関わらずAのノートが聖典のように扱われる場面には違和感を覚える。

 

評論家の立花隆氏は言った。「考えてもみていただきたい。社会が悪い、学校が悪い、親のしつけが悪いで、十四歳の子供が、六年生の女の子二人の頭をショックハンマーで殴り、それから一か月後に四年生女の子の頭を八角げんのう(金づち)で殴って、脳挫傷で死にいたらしめ、さらにその十分後にくり小刀で別の女の子の腹を刺すというような行為をするか」と。(『文藝春秋1998年3月号』「正常と異常の間」)そして男の子を殺害、遺体を切断、その血を飲んでも精神鑑定の結果は精神異常とは判定されなかった。確かに調書を読む限り(調書だから本人が書いたわけではないが)理性的であり論理的である。まさに「狂人は正気の人間の感情や愛憎を失っているから、それだけ論理的でありうる」(チェスタトン『正統とは何か』)である。

 

だが誤解を恐れずに言えば、ボクはA に同情するところもある。「少年の処分決定要旨」にあるように彼は「自分は他人と違い、異常であると落ち込み、生まれてこなければ良かった」と思っていた。彼の手記『絶歌』では事件当時、「自分をコントロールできなかったから、力ずくで誰かに止めてもらうしかなかった」と述懐している。

 

今作ではノートを見た教師が「くだらない遊び」と決めつけ問題から逃げようとするが、Aの周辺は違った。小学校3年生のときにはAに異常を感じた親が神経内科相談に行ったが「あえて病名を付けたら軽いノイローゼで、あまり心配しなくていい」と説明を受けた。

6年生のときAが図工で赤く塗装した粘土細工の脳に、いくつも剃刀の刃を刺した不気味なものを作った時には夜七時頃にもかかわらず教師は母親に会いに行った。母親はAが中学生になり問題行動が続いたとき、「脳に障害でもあるのではないか」と小児神経科でMRIを撮った。しかし脳に異常はなく「注意散漫・多動症」と診断されるにとどまってしまう。けれど教師は何かある度親を学校に呼び出し、時には弟の運動会の最中に親と会ったりもした。

Aに近づくなと生徒に注意した教師もいた。その注意を受けた友人の歯をAが殴って折ったときは警察が介入するチャンスだったが、警察官が「友達なんだから警察沙汰にせず、これでおさめといたほうがいいんじゃないですか」と被害届は出さずに終わる。折られたほうは警察も学校もあてにならないならと危険を感じ転校してしまった。

Aが「儀式」を行うために学校をしばらく休むと言い出した時には(もちろん正直には言わないが)これがチャンスと教師たちはカウンセラーを紹介した。しかし2回目のカウンセリングを受ける前に「儀式」は実行されてしまったのだ。Aの心の闇に辿りつくチャンスは何度かあったが各所との連携が上手くいかなかったともいえる。

(Aは祖母の死後小学5年生の時、位牌の前で初めて精通した。祖母が使っていた電気按摩器を股間にあてて射精の際に激痛で気絶している。また猫を踏み殺しながら射精した時も痛みを感じている。時間は遡るが『「少年A]14歳の肖像』(高山文彦)によると幼稚園のときは小学生からいじめを受け、ミミズを食べさせられたこともあったという。その幼稚園時代、一度きりだが何故か女の子の首を両手で絞めたことがあった。きっとAの心の闇を理解できる人は、これからも出てこないだろう。今後同じような子供が現れた時、その時は医学の発達で脳の障害と診断できたらと思う(Aなら3年生時の検査で)。あくまで脳の問題であったらと・・・。)

 

そして手記で彼は、死刑になった山地悠紀夫の事件に触れる。山地は16歳で母親を金属バットで殴り殺し少年院に入ったが、退院2年後同じマンションに住む姉妹を刺殺し死刑となる。山地は最初の殺人後、少年院で精神科医の診察を受け「広汎性発達障害の疑い」と診断された。退院の際、精神科医は外部の医療機関宛に紹介状を書いて渡すが山地が外部で精神科を訪ねることは無かった。おそらく現在ならきちんと外部と繋げるシステムがあるのだろうが当時は無かったのだ。一審で死刑判決が出たが彼が上告・上訴することは無かった。生まれて来るべきではなかった、事件を起こす起こさないではなく、「生」そのものがあるべきではなかったと弁護士に手紙を書いている。「いろいろとご迷惑をお掛けして申し訳ございません」と。

山地についての記述は、逮捕時の彼を見たときの文章で終わっている。

「山地が逮捕時に見せた微笑み。僕には、彼のあの微笑みの意味がわかる気がした。それは言葉で解釈できる次元のものではない。もっと生理的に蝕知する種類のものだ。                                                あの微笑み・・・・・。                                                   あれほど絶望した人間の顔を、僕は見たことがなかった。」

 

学生さんの周りにはやべーやつがいるかもしれない。大人になれば関わり合うことの無いであろうやべーやつ。ただ何か感じるものがあったら教師や大人に相談してほしい。これらの事件を教訓とし、頼りなく思えるかもしれないが真摯に話を聴いてくれる大人もいるはずだ。絶望した人間の顔、それを見ることなど誰も望みはしないのだから。

 

2024年6月9日(日)15:00

ターミナルプラザことにパトスにて観劇

text by S・T

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。