ポストテラヤマとは? 劇団 風蝕異人街『身毒丸』━━今、甦るテラヤマ━━

岸田理生アバンギャルドフェスティバル リオフェス2024参加作品                                                        原作/寺山修司                                                                               脚本/岸田理生                                                                                構成・演出/こしばきこう

正直、寺山修司は分からない。                                                                        寺山修司にふれるのは2019年に観劇した『青森県のせむし男』以来だ。その間寺山に関する本も読んでいない。だから劇団のツイートにあった、

ポストテラヤマとはbyこしばきこう                                                                      ポストテラヤマとはアバンギャルド的エンタメ。サブカルチャー的なアバンギャルド感覚を持ちつつ、物語性を重視する。従来の意味性を排除するアバンギャルドとは異なる!!

との一文を読んでも全くといっていいほど意味が分からなかった。物語性を重視する、つまり分かりやすいのかな?と思ったくらいだ。とはいっても予習は大事、DVDで『身毒丸ファイナル』を観たり、戯曲デジタルアーカイブを利用し寺山版と岸田版を読んだ。けれど案の定さっぱり分からない。元ネタの一つと言われる説教節の現代語訳を読んで少し理解が進み、ようやく面白くなってくる。今公演も予習無しで行ったら、ただ呆気にとられて終了だったことだろう。(とは言っても短歌とか合唱曲の意味はさっぱり分からないので、今後ネタバレ歓迎の希望者には短歌や合唱曲について事前に講義を行ってほしい。)

こしば氏構成の今作は、寺山版・岸田版・そしておそらく(読んだ事は無いので)蜷川演出の上演台本をコラージュしていた。上演中「これは寺山、このセリフは読んだことないけど聴いたな・・・」とボクの頭の中はグルグル回転する。そして基本は岸田版で良いんだけど身毒が撫子に食べられるラストが観たいと思っていた(リオフェス参加作品にもかかわらず)。しかし、当然のことながら恋愛成就で終わってしまった。殺害されたあと、身毒を見つめる(恨むのではなく優しく?)せんさくが出てきたときは期待したのだけれど・・・。

リオフェスなんだから無理を言うなと多くの方は思われるだろうが期待した理由は、こしば氏が言うように「物語性を重視」「意味性を排除するアバンギャルドとは異なる」なら、身毒は撫子に食べられるべきとボクは考えたからだ。実はボクなりに『身毒丸』の理解が進んだのは元少年Aが書いた『絶歌』を読んでからだ。先日『14歳の国』(宮沢章夫)を観劇するにあたり参考に読んだのだ。(その時の感想はサイト内にあるので興味のある方は読んでみてください)

その本では元少年Aが精神分析について解説しており、                                                                     「胎内回帰願望は死の欲動を駆動させるエンジンであり、死の欲動の馬力は胎内回帰願望の強弱によって決定される。」                                          「「死の欲動」は、他人や自分自身への強い破壊衝動、つまり‶サディズム” や‶マゾヒズム”とも密接に関わっている。」                                            とあった。

今作に当てはめれば身毒の胎内回帰願望は物凄く強く感じるし、マゾヒズムとくれば、あんなに反抗的だった身毒が素直に尻を出して撫子にぶたれたのにも納得がいく。興味をそそられたボクは、さらに胎内回帰願望について調べるために『天才の軌跡』(堀口尚夫)を読む。すると、フロイトがエディプス・コンプレックスを説きながら目を刺す行為に言及が無いのは「視覚に対するうらみ」(自身と母親が異なった二つの個体であると意識させる)があるのではと推察されていた。そうなると身毒が目隠しをして実母と撫子を間違える場面は、視力を失くすことで撫子との関係を良好にしたいという願望の表れとも思えてくる(せんさく殺害後も女装したままなのは撫子と一体化したかったから?)。また撫子が身毒の目を潰したのは、そうすれば継母から母になれると考えたからではないか(老いていく姿を見られたくないとは言っていたが)?

そもそも物語は身毒が汽車を探すことから始まっている。寺山修司が汽車の中で生まれたのなら、この始まりは胎内回帰願望の表れであろう。そうであるなら願望成就で終わるのが望ましいはず。胎内回帰願望が死の欲動につながるなら「ぼくをにんしんしてください」は「ぼくをころしてください」の意味だろう。

これに対して「にんしんしてやりたい」という撫子は説教節でいう大蛇であろう(燕の卵を食べた業で子供を産めなくなった)。なんどもおまえを産みたいという言葉は、何度生まれ変わっても子供を産めなかった悲しみの表れかとボクには思えた。そして、このセリフを理解するのにも元少年Aが参考となった。今度はその母親であるが最終審判のとき次のように誓っている。「十月十七日のこの日をもって、私はこの子を産み直したと思い、これから十五年をかけて、この子をまっとうな人間に育てあげたいと思います」『「少年A」14歳の肖像』(高山文彦)と。撫子にすれば身毒が道を誤ったり人生に絶望したとき、何度でも生み直してあげたいという気持ちだろう。もちろん自分が身毒の目を潰してしまった後悔もあるだろうが・・・。

だから身毒のため、泣きながら(ボクの解釈)身毒を食べる撫子が観たかった。身毒と融合する喜びにあふれる(ボクの解釈)撫子を観たかった。そして優しくお腹を撫でる(ボクの解釈)撫子が観たかったのだ。しかし生を取るか死を取るか、二つの結末を合わせ鏡として観るのも、これまた味わい深いのかもしれない。

今作は蜷川演出との比較も出来て自分としては楽しめた(トマトさんの「どうしてでございますかね」は良かった。「我が子やーい」の直前の表情も)。ただ気になったのは撫子の髪が短かったこと。長い黒髪が蛇性の象徴であるはずだし、長いからこそ髪切虫が効いてくると思うのだ。また髪が長ければ、最後に業の刈り取りが終わった証(捨て児のせんさくを育てた徳と、転生を繰り返して受けた苦しみで罪を赦された)としての髪の短い撫子、赤ん坊を抱いた撫子を立たせる演出も可能と妄想するのだが、流石にそこまでやると寺山・岸田に対する冒涜となるのだろうか?

※身毒によるせんさくの殺害は、撫子への復讐とは別に深い意味があると思う。不謹慎かもしれないが、身毒とせんさくの手をつなぐ姿は、ボクには元少年Aと被害者少年の二人に重なって見えたのだ。『絶歌』の「ニュータウンの天使」という記述を読んでいただければ、ボクの言いたいことは何となくお分かりいただけるかと思う。批判も多い本ではあるが試しに読んでいただきたい。かなりの精神的ダメージをボクは受けてしまったのだが・・・。

 

2024年6月16日(日)14:00                                                                         アトリエ阿呆船にて観劇

text by S・T

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