ひとりの女子高校生の悩みと、800年前、木曽義仲ら一団の命をかけた戦いが同等の価値かもしれない、そういう物語だと僕はとった。
自分とは何者なのか、特別な人間になりたい司(木村歩未/劇団fireworks)は代々伝わる古文書を開き、そこで語られる木曽義仲らの挙兵と凋落の物語に惹かれていく。
「語られる」というのは文字通りで、古文書の書き手である鬼子(櫻井保一/yhs)が現れ、司に物語を語るのだ。
すると時代は800年前に飛び、平安の終わり、騒乱の時代に仲間を引き連れ挙兵した木曽義仲らの物語となる。
司パートと木曽義仲パートがだいたい3:7くらいの割合で進んでいくのだが、後半、司の悩める人生に木曽義仲パートが浸食しめると物語はがぜん面白くなる。
木曽義仲パートの方が時間的に長く、命をかけて戦う雄大な物語なのだが、現代の司パートの方が僕の心を打った。自分を特別な人間と思いたい、まわりの人間とは違う特別な存在なんだといういっけん中二病的な思いだが、当人にとっては切実なのだ。
たかが“イタい”女子高生の思いが、命をかけて戦った木曽義仲らに匹敵、いやそれ以上のものであるかのように悲痛な叫びとして劇場に響く。
劇団fireworks『沙羅双樹の花の色』。この劇を観て僕は2022年(日本では翌年)の映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を思い出した。娘と母の軋轢が、宇宙の存続を巡る大いなる戦いと同等で、おたがいが同期・干渉し合うものとして描かれる映画だった。『沙羅双樹の花の色』もまたミクロとマクロが絡み合う物語だ。
800年前のパートを「木曽義仲ら」と書いたが、実質の主人公は巴御前(米沢春花/作・演出担当)だ。木曽義仲に思いを寄せる女武者で、男たちの戦いに女性として身を投じる。のちに敵対することになる源義経一行の中におなじ女性の静御前(国門紋朱/もえぎ色)を見つけ、話がしたいとスタバ?の甘そうなコーヒーでお近づきになろうとする場面は本作の白眉だ。
男たちの戦いがしだいに不毛な死にたがりゲームと化していく中で、巴御前は微細な心を持ちつづける。ゆえに輝く。
いっぽう現代の司は、代々男子にしか継ぐことができないという一族の決まりのために男装し、周囲からは浮くし自らまわりを拒絶してしまう。巴御前のあり方と司の不器用な生き方が両輪となって物語をつむぐ。ここがいい。
しかし要望もある。木曽義仲パートはよくいえば劇的なのだが、悪くいえば大ざっぱな時代劇という印象だった。現代パートと比べて人物やストーリーの解像度が低く、細かい描写や繊細さがもっとほしかった。木曽義仲の挙兵の意味や動機も伝わりにくく、「戦のない世の中に」という大義名分には説得力が必要だ。
僕は2023年冬の演劇シーズンで劇団fireworksの『崖の上のシーラカンス』を観て驚いた。3つの時代を並行して描くストーリーや新鮮な笑い、豊かな叙情に札幌の新時代の作劇家が現れたと思った。
その解像度で、そして今回の現代パートの繊細さで時代劇パートを描いたらどうなるだろう。もっともっと上へ、さらなる飛躍があるはずだ。勝手に期待している。
役者について。巴御前を演じた米沢春花はいまそこにある感情をダイレクトに出していた。過去パートについてはちょっと辛口に書いたが巴御前の物語をぜひ観てほしい。
静御前・国門紋朱は内面を表さないが、なにかあるのでは? と思わせる引きがある。静御前と巴御前、ふたりの物語をもっと観たい。
楯親忠を演じた有田哲(クラアク芸術堂)は野生人からどんどん知的になっていく役で楽しく見応えがあった。また、鬼子・櫻井保一のセリフの気持ちよさはちょっと異常で、ともすればなにを言っているか聴きとりづらい舞台の中で明晰に聞かせ語りの心地よさを与えてくれた。
過去・現代両パートで「父」を演じた赤坂嘉謙(劇団清水企画)はピタッと調律が合うような、たしかな存在として舞台に現れる。その役、その場面、そのセリフ、ひとつとしてはずすことがない。それでいてしっかりユーモアや人間味をにじませていた。
那須与一と綾乃の二役だった山下愛生の綾乃役についても書いておきたい。生き生きとした弾けるような演技で、まるで劇場に犬が駆けこんできたような、そんな生命力だった。
現代パートはほかに、悩める司(木村歩未)は気持ちが伝わる好演。父と司の間を取り持つ姉のみはる(小川しおり/劇団fireworks)は司より少し大人だからこそ俯瞰で見られる。いろんなことを気遣う優しさと、気疲れゆえの疲労感のようなものすら感じた。
現代パートには繊細な人物造形や物語の解像度がある。時代劇パートも同様に描けばもっとよくなる。そういう可能性をこの舞台に感じた。
公演場所:コンカリーニョ
公演期間:2024年7月27日
初出:札幌演劇シーズン2024「ゲキカン!」
text by 島崎町