写実と想像のあわい HTL『北緯43度から見た二つの椅子』

脚本・演出 竹原圭一(RED KING CRAB)                                                                  ゴッホ   和泉諒(劇団fireworks)                                                                     ゴーギャン 高橋雲(ヒュー妄)

 

ゴッホとゴーギャンとの間で起こったことは何が真実なのか誰にも分からないし、たとえ実在の人物たちでも作品は事実通りにつくる必要がないのは当たり前、写実と想像の間のものであるのは重々承知の上で気になったことを幾つか述べてみたい。重ねて言うが何が真実なのかは誰にも分からない、可能性の話だ。

まず、序盤でゴッホが弟テオの結婚を嬉しく思はなきゃと自分に言い聞かせるが、婚約を知ったのは耳切り事件の直前とするのが大方の見方である。テオが互いの親に婚約を認めてくれるよう手紙を書いたのは12月21日なのだから。それなのにテオの結婚話をゴーギャンの到着その日にもってきたのだから、ボクのなかでクエスチョンマークが浮かんだ。

なぜなら「テオが家庭を持てば経済的に余裕がなくなり自分が援助を受けられなくなるのでは?」との不安がゴッホ錯乱の原因とする見方があるからだ。その見方を竹原さんはある程度支持はするが、物語の構成上終盤の口論の場面では入れにくいと判断し、あえて補助的な伏線として序盤に入れたのだろうか?そうでなければ必要の無いエピソードに思えた。

次にアブサンをグビグビ飲んでいたがゴッホはアルコールに弱い。書簡全集第4巻(みすず書房)テオ宛474の手紙では小さなコップ一杯のコニャックで酔ってしまうと書いている。そして、パリではアブサンを飲んでいたがアルルでも飲んでいたのかは疑問。当時アルルにおいてアブサンは、ほぼ流通していなかった。ゴッホがアブサンを飲んでいたと証言したのはゴーギャン。正直ゴーギャンの話はあまり信用できない。

書簡全集第5巻538によるとテオに「(アルルに)来てほしいというなら旅費と借金を払ってくれ」と要求しておきながら、文章を集めた『オヴィリ』の方では「ヴィンセントの真剣な友情にほだされて出発した」と回顧している。また、自分がゴッホの「蒙をひらいて」「ひまわりに次ぐひまわりのあの連作が生まれたのだ」と豪語する。ひまわりは共同生活以前から描いていたのだから、もう何を信用すればいいのか分からない。たしかにゴーギャンがアルルに来た後も連作は続くのだが・・・。

また、事件後に描いたゴッホの作品に『皿とタマネギのある静物』があり、そこに描かれた瓶を見て「アブサンだ!」と言う人もいる。だが決めつけるのは少々強引ではないか。むしろ治療中病院でも食事とともに飲まれていたワインと考えたほうが自然だろう(一緒に描いてある本は家庭の医学書だからなおさら)。

それにゴッホの錯乱は精神疾患による可能性が高い(両親の間に生まれた6人の子供のうち自殺が2人、精神科病院で死亡が2人。母方からの遺伝との見方がある)が、予備知識なく観た人にはアブサン中毒(中毒といっても耳を切るほどかな?)にしか見えないだろうと感じた。もちろん全否定はしないけれど。

そして終盤では耳切り事件のことを風のうわさで聞いたふうな感じでゴーギャンに言われると(ボクの受け取り方が間違い?)、「お前ゴッホを殺したと誤認されたよな」と言いたくなる(出血しシーツにくるまって動かないゴッホは、死んでいると警察に勘違いされた)。そのほか事件に至るまでの証言は、そのときによって違い信憑性に欠ける。

お気づきの方もいらっしゃると思うが、ボクの視点の多くはバーナデット・マーフィーの著作『ゴッホの耳』による。この本にはゴッホが耳をわたした女性についても詳細に書かれているので読んでいただけたらと思う。彼女の観劇体験も絡み、ドラマチックで想像を掻き立てるエピソードだ。ゴッホがアルルに来た理由はひょっとしたら・・・と思える。

他にも気になる点はあるが、ボクはゴッホに詳しくないし(詳しいジャンルは何もない)資料もあまりない(国会図書館デジタルコレクションにはお世話になりました)のでこの辺でやめておく。基本的にゴッホとゴーギャンの間で一定の敬意はあっても友情話は成立しない、という先入観を持って観劇したのは正直に告白しておく。

最後に竹原さんも上演台本のあとがきに書いてあるように二人について関心を持ち、調べる人が増えたら良いと思う。アルルと札幌が同じ北緯43度ということで、「ゴッホの演劇といったら札幌」のイメージが定着するくらいゴッホ関連作品が出てきたら嬉しい。そう期待するのはボクだけではないはず、と思うのだが如何だろうか?

 

※ドミノクラシ―(牧師による文化支配)といって1870年代のゴッホが青年期を過ごしたオランダでは牧師が芸術の評論をリードしていたという。しかし若い世代が教会離れをおこし80年代に崩壊していった。ゴッホも同じく教会から離れた一人だった。では現代の札幌はどうだろう?宗教家による文化支配が起こるわけがないので宗教家が演劇の感想を自由につぶやいても良いんじゃないかと思う。世俗の人間としては、お葬式くらいしか宗教にふれる機会が無いので「宗教家が観劇して何を思うか」には関心がある。きっと面白い視点で語ってくれるはず。今作は僧侶であり芸術家の風間天心氏が美術監修をされている。ぜひ風間氏の感想を読んでみたい。一つの文化のあり方として、札幌が「宗教家がよく演劇の感想をつぶやいているんだよね」といわれる地域になったらボク的には面白く思う。布教の一環にもなるのと思うので、風間氏にはその先駆けになっていただけたらと思うのだが難しいかなぁ?

 

2025年4月25日(金)20:00

ターミナルプラザことにパトスにて観劇

text by S・T

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