「私は最後の最後まで、あなたたち視聴者の正体をつかみそこねた」
劇中、発せられたセリフだ。僕はこの言葉につきる気がする。野沢尚という脚本家は、正体をつかみそこねた存在を作品で描いた。自分自身の投影である長坂というテレビキャスターを登場させ、八尋(やひろ)という若者と対決させた。
ふたりの対決はどう決着するのか。あのラストは救いであったのか。できれば救いであってほしいと思うのだが……。あれで、つかみそこねた視聴者との対決は終わったのだろうか?
いや終わってはいない。そもそも長坂が(野沢が)つかみそこねた存在は八尋だったのだろうか。八尋に操られた無数の存在、それこそがつかみそこねた者だったのではないか。
八尋から送られてくる遠隔の指示を、ガラケーをパカパカ開けて読む者たち。光った画面をじっと見つめ、まるでテレビを観ている視聴者のようだ。
野沢は、長坂と八尋を対立する存在ではなく、おなじ存在として描こうとしたのではないか。長坂と八尋が最後どうなったのか。おなじ道をたどっていくさまに合点がいく。あのラストシーンにも。そしてこの舞台のチラシのビジュアルには、すでに答えが描かれている。ふたりは重なりあう存在なのだ。
弦巻楽団『砦なき者』。首都テレビの報道番組「ナイン・トゥ・テン」にて放送された売春事件。視聴率は上がるが、かかわっていたとされる女子高生(相馬日奈/弦巻楽団)が自殺する。番組のメインキャスター・長坂文雄(深浦佑太/ディレバレー・ダイバーズ)は一転して非難の的となる。長坂の転落と対照的に、死んだ女子高生の恋人・八尋樹一郎(戸澤亮)は番組を批判・告発、メディアの注目を集め時の人となっていく。長坂は番組を降板し田舎に帰るが、ディレクターの逢沢瑤子(木村愛香音/弦巻楽団)は八尋の素性を明かそうと独自の取材をはじめる。
大変な力作、意欲作だ。べらぼうにおもしろい。昨年のアーロン・ソーキン脚本作『ファーンズワース・インヴェイション』につづき、札幌演劇という枠組みを超えた社会派エンターテインメントだ。
『ファーンズワース』がテレビ創生期の物語なら、本作はテレビ円熟期の、メディアの王となり自身が生み出す影と向かい合う物語だ。
原作小説が出版されたのが2002年、のちにテレビドラマ化されたのが2004年。すでにインターネットは出始めているが、まだテレビの地位は揺るがない。圧倒的な強者としてのテレビだが、その下には影が広がっている。メディアの力によって歪められたもの、そして傷ついた者たち。
そこを描こうとしたのが野沢尚だった。本作の前に『破線のマリス』という小説、脚本を書いた。小説は江戸川乱歩賞を受賞(1997年)、映画化もされた(2000年)。虚偽報道、報道被害をめぐるサスペンスで、本作とおなじ首都テレビが舞台。長坂もテレビキャスターとして登場する。『破線のマリス』の主人公は番組の編集を担当する「遠藤瑤子」。『砦なき者』のディレクターも「瑤子」だった。
ふたつの作品は舞台や人物、テーマに相関関係があるばかりでなく、中心をおなじくするふたつの円のようだ。被害者と加害者、ウソと真実、メディアとはなにか、撮すとは、編集とは、放送とは。
ただ『破線のマリス』の遠藤瑤子と『砦なき者』の長坂は似ているようで違っている。『破線のマリス』の瑤子はやる気に満ち突き進むがゆえにメディアの被害者を生む。いっぽう『砦なき者』の長坂は、彼自身の過失はあるが、ディレクターの瑤子が突き進みその共犯者として事件と被害者を生む。
『破線のマリス』の瑤子にあった活気は長坂にはない。彼はつかれている、あきらかに。ここを強調したのが今回の舞台版で、役所広司が演じたドラマ版の長坂と比べても、深浦演じる長坂の疲労感はあきらかだ。彼は降りたがっている、さまざまなことから。
それでもディレクターの瑤子に首輪のようにネクタイを締められ、自分の言葉ではない原稿を読み、他人が取材・編集したVTRを紹介する。かつて戦場記者として現地を取材していた男の姿はない。
そんな長坂がやろうとした唯一のことは、八尋の正体を突き止めることだ。前述したようにその正体は対立する他者ではなく、自分とおなじ存在だった。つまりこの物語は自分自身をみつめ、手を差し伸べることで終わる。
美しいラストだ。目が熱くなった。かなうならば3部作としてこのつぎの物語を観てみたいと思った。長坂も野沢も正体をつかみそこねた視聴者という存在へ手を伸ばし、握手する物語を。長坂と八尋が重なり合う存在であるように、実は送り手も受け手もおなじなんじゃないか、僕はそう思う。
本作は、舞台化することで脚本のよさを際立たせているところが多かった。まず、ひとつの空間でさまざまなシーンが展開する効果だ。ドラマ版ではシーンと場所が転々として、ストーリーがドライヴしていくよさはあるのだけど、どこか落ち着かなさがあった。いっぽう舞台版は、劇場という限定された空間に収まることで、ドラマが濃縮され焦点がくっきりしていた。
舞台美術(高村由紀子)が果たした役割も大きい。背後にある木々を模したと思われる美術は、ときに森に、ときにスタジオのセットに、あるいはビルや人の群れに、そして長崎の海にひろがる雲のようにも見えた。
また、ドラマ版で違和感を感じた箇所を、適切にカットして作品に集中できるようにしていたのはさすがだった(八尋の部屋の造形やベッドシーンなど)。逆に、映像としては当然だけど演劇としては難しそうな場面(殺人や事故、戦場シーン)もあえてそのまま見せていたのはおどろいた。この脚本をしっかりやり切る、という覚悟を感じた。
しかし過去の回想はどうしても物語が停滞する。後半の真実パートの回想は、ドラマ版では編集の力でなんとかしていたが、舞台となると分が悪い。今回、テレビドラマを舞台化する試みは大成功と言っていいが、回想シーンを舞台でどう表現するかは課題が残った。
ともあれ本作は大きな成果だった。日本のテレビドラマには傑作・秀作が多いが、気になる点も多い。たとえば予算やロケーションの問題で脚本をじゅうぶんに活かせていない場面などがあるが、舞台化することで(見せ方で)クリアできるところがあるなと、今回の舞台を観て思った。
さらに、配信でいつでも観られる現代と違って、ひとむかし前のドラマは一度放送されたらそれっきりのものも多い。よっぽど関心がある者だけが、たまにソフト化されたものを観たり、脚本が読める場合はそれを読んだりするだけだった。
野沢尚ほどの書き手であっても、いま触れられる機会は少ない(小説は読めるが)。舞台化してかつての名作をふたたび世に問うという方法は、これからもっと増えてもいいだろう。
「私は最後の最後まで、あなたたち視聴者の正体をつかみそこねた」
野沢尚は、脚本を書いた演劇作品で、初日でも楽日でもないのに劇場に足を運び、終演後のロビーでひとり観客の顔をながめていたという。
彼がまだ生きていたなら、今回の舞台にも駆けつけて、終演後じっと見つめただろう。僕たち観客を。どう考えた? そう問うようにして。
弦巻楽団『砦なき者』
公演場所:コンカリーニョ
公演日:11月13~16日(11月14日観劇)
text by 島崎町