演劇人としての決意? 瓶詰企画 『分身』

脚本・演出:櫛引ちか

台本を購入できず役名が確認できないため役者名で書くが、高校生である秋葉ちよが自分を同期の長岡柚希と思い込む物語。二人は同じ大学を受験したが長岡は不合格。浪人して同じ大学をめざす長岡だが、秋葉は小説家になるため大学をやめてしまう。だが秋葉は、いつからか小説が書けなくなる(記憶に若干の不安あり)。

舞台はおそらく秋葉ちよが大人になった櫛引ちかの精神世界。自分が長岡を傷つけてしまったことが心の傷となり精神世界の中で自分を癒そうとしているのか?秋葉が自分を長岡じゃないと気付いたあとも物語は長岡中心に進行する。そこには長岡しか知らないであろうエピソードもある。それじゃおかしくない?と思い観劇後に分身の意味を調べてみると、仏や菩薩が衆生救済のために仮の姿で現れるとあったり(長岡は最初医者として出てくる)、幻覚で自分自身を見るとあった。ただ今作に宗教的な感じは受けないので、現実と思えるほどの世界と仮想の自分を精神世界に造り出し、人生を前に進めようとする意味での分身なのか?と思った。

その精神世界には櫛引本人も出てくる。名前も無い、何ものでも無いという。なぜなら「人間は他者から認識されて初めてそのように存在する」のようなことを言っていたと思う。と思えばウサギのぬいぐるみ(よっしー)は長岡に「自分が何者かは自分で決めればいい」の様な事を言う。この考え方の違いが妙に引っかかるのだが、最後に上手くまとめたと思った。

精神世界から目覚めた櫛引は鉛筆を手にし、ノートに小説を書こうとするがやはり書けない。櫛引は「小説家」というアイデンティティを持ちたかったのだが、小説を書けなければ他者からそう認識されることは無い。そして小説を書けなければ「自称小説家」にもなれないのだ。小説を書けない櫛引が鉛筆を折るところで物語は終わる。この終わり方をどう解釈すればいいのか。ボクには櫛引さんが劇作家として、演劇人として生きていく、決して筆は折らない。そんな決意の表れと思ったのはボクだけだろうか?

 

2025年11月23日(日)13:00

演劇専用小劇場BLOCHにて観劇

text by S・T

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