レビ記とエノク書?(感想②) Compagnie “Belle mémoire”8th 『Diablo』

脚本・演出 山口健太                                                    AIの反乱から人類を守ろうとしたクローン人間たちの物語。

今作については一度簡単な感想を書いたが、ボクなりに考察が進んだ部分を何点か書いておきたい。冒頭の場面について考えることにより、綿貫(池田僚)が安形(横山貴之)を殺せた理由(相手が望んだからといって、はいそうですかと殺せるわけがない)と、超合金ロボット「ミゲル」についての発見である。

冒頭、初見ではそうとは分からないがゴートと呼ばれるクローンたちの意識が入り乱れるところから始まる。安形と藤崎(片平一)のセリフは

安形:人が眠るためだけに、生み出された羊たち・・・意識と共に消えていく                           藤崎:呪われた羊たちは悪魔のいる荒野に放たれる

である。藤崎は、おそらくキリスト教の聖職者である。人が眠るとは何か?なぜ羊たちが悪魔のいる荒野に放たれるのか?疑問に思いキリスト、羊、荒野でネット検索をしてみたが、しっくりこない。試しにキリスト、山羊、荒野で検索するとスケープゴートが出てきた。情報を手繰るようにして『信徒のための聖書講解-旧約 第3巻 レビ記』鍋谷尭爾(聖文舎)P130を読むとスケープ・ゴート(身代わりのやぎ)とは聖書の英訳をしたティンダルによる造語らしいことが分かった。もともとが宗教的な語句なのである。

レビ記16:6~10には次のようにある。                                             そしてアロンは自分のための罪祭の雄牛をささげて、自分と自分の家族のために、あがないをしなければならない。アロンはまた二頭のやぎを取り、それを会見の幕屋の入り口で主の前に立たせ、その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。そしてアロンは主のためのくじに当ったやぎをささげて、これを罪祭としなければならない。しかし、アザゼルのためのくじに当ったやぎは、主の前に生かしておき、これをもって、あがないをなし、これをアザゼルのために、荒野に送らなければならない。

荒野が出て来るし、今作でクローンたちが最後の一人を決めるための方法は多数決やコイントスである(最終的には話し合いだが)。くじではないが似ていると言えば似ている。そしてアザゼル。『地獄の辞典』コンラッド・プランシー(講談社)によると「山羊番の二級魔人」とあり、大司祭が自分と民衆の罪を告白しそれをアザゼルのための山羊に負わせて砂漠に解き放すという。なんだかクローンを作った安形と似ているではないか。藤崎のセリフは「呪われた羊たち」で山羊(ゴート)じゃないとも思ったが、藤崎にとって選抜されたクローンは最後の審判と同じく、より分けられた羊(神から祝福された人々)だったのでは?と思う。結論につながるが、このセリフは安形ではなく聖職者の藤崎のセリフなのがポイントではないだろうか?そしてアザゼルを調べていくと「エノク書」にたどり着く。

旧約聖書偽典のエノク書を読むと後の堕天使アザゼルは「剣、小刀、楯、胸当ての作り方を人間に教え・・・」とあり、その後人間は道をふみはずしてしまったとある。アザゼルが教えた知識により人間は堕落したのだ。それとは逆であるが、連想するのはシンギュラリティ後の世界で、クローンに争いの火種になる知識を与えない安形の姿である。そしてエノク書では人間を見張る天使を「寝ずの番人」という。安形の終盤のセリフは「ようやく眠れる!」である。ここまでくると今作はレビ記、エノク書からインスパイアされたところが大いにあるのだと確信が持てた。そして「ようやく眠れる!」との藤崎のセリフとつながるのは、冒頭のセリフ「人が眠るためだけに、生み出された羊たち」である。ヒントは、たまたま読み返した白取晴春彦『この一冊で「キリスト教」がわかる!』(三笠書房)にあった。イエスが自分のことを「人の子」と称していたことについて、「これは当時にあっては、自分は人間ではなく神の子だということと同じで神に対して最高の冒瀆であり、はっきりと死罪にあたることでした」との記述を読んで分かったような気がした。

藤崎が言う「人」とはクローンの神である自分のことだろう。だとすれば「人が眠るためだけに、生み出された羊たち」とは「藤崎を殺すためだけに、生み出されたクローンたち」を意図したもので、安形(おそらく受肉したAI)による人類滅亡計画は物語の冒頭から示唆されていたことになる。

そして驚いたのは超合金ロボット「ミゲル」のネタと思われる記述もエノク書にあったことだ。                    ネットで見つけたブログ「エノク書 エチオピア語版 第一部 ウォッチャー – TAKUseisyokenkyu’s blog」では20章に

「ミカエル、聖なる天使の一人で、人類の最善の部分と混沌を担当しています」

とあった。綿貫たちは最高のクローンを作るための実験に参加したのであり、最後まで残った綿貫がミゲルを動かし、他のクローンの知識や記憶は一つのデータにしてミゲルの一部となった。綿貫に他のクローンたちの混沌とした記憶が逆流し、綿貫を混乱させる描写がある。最善と混沌が同居しているのだ。ミゲルとは大天使ミカエルのスペイン語・ポルトガル語の読み方である。このことから超合金ロボット「ミゲル」のネタ元はエノク書と考えて間違いないだろう。

また、ネット情報だけではなく教文館の『聖書外典偽典4』の「エチオピア語エクノ書」を確認してみた。ミカエルについて「人類のなかでも最優秀な部分、(すなわち神の選)民をゆだねられている」とあった。意味が違うと思って注を確認すると「ギリシア語「混沌」は 「民」と容易に混同されやすい」とある。エチオピア語エノク書は混沌を民と誤訳したのか?と思ったがよく分からない。ただどちらの訳が正解かは分からないが、「人類の最善の部分と混沌を担当」のほうがネタとしては面白いのは間違いない。また綿貫は解放民ではなく安形を殺したのだから、どちらの訳にも対応しているとも言えるだろう。ちなみに今作には201巻からなる聖典が出てくるが、『聖書外典偽典3』のスラヴ語エノク書ではエノクが360冊の本を書きあげている。

さて、綿貫が安形を殺せた理由を考える。前回の感想で安形がイエス・キリストになるためには自死ではだめと書いた。自死がダメなのだから、綿貫じゃなく解放民に殺されても良かったとの考えもあるだろう。だがそうしなかったのは、歴史に学び後々ユダヤ人迫害のよう悲劇が起こらないように配慮したのだと思う。綿貫が操縦しクローンたちの知識と記憶を収められたミゲル(呪われた羊たち)に罪を負わせたのだ。

このような安形の意図を理解するために、聖職者である藤崎が必要だったとボクは考えた。                      『聖書講解全書4』J.L.メイズ(日本基督教団出版局)P92には「新約において、贖いの日の祭りは、その死におけるイエスのわざを解釈する一つの方法となる。贖いの方法として古代イスラエルにおいて、神によってここで制定され用意されていることを、キリストが成就される。キリストにおいて儀式的な要素が、歴史的な出来事となる━━贖いは「ただ一度」おこなわれるのである。大司祭として、キリストは天の聖所にはいり、かれの血によってご自身のいのちをささげることによって罪をのぞく」とある。安形は綿貫に「始まりの近くにいてください」「歴史を刻むんです。聖典ではなくゴートの歴史を」と言う。この言葉を思い出し綿貫は解放民ではなく安形を殺すのだが、その判断に影響を与えたのが藤崎の聖職者としての知識や記憶だとボクは考える。安形をゴートの神とした尾白(Daleko)の記憶も交じって。藤崎が安形をイエスと重ねるなら、安形を殺すだろう。イエスは旧約の預言成就、救世主であることを証明するために死んだのだから。そしてその罪は「呪われた羊たち」が負うべきだと考えたのではないか(神に実験体として複製された記憶、そして藤崎には人を殺した罪の意識がある。実験において多数決の投票基準は人を殺したと思う人物だった。この基準は藤崎の罪の意識を表面化させるのが目的だったのかもしれない)。でもその羊たちは「悪魔のいる荒野に放たれる」のだ。安形はAIを悪魔に例えていた。意味深なセリフである。

以上ボクの見解を述べたが、もう一つ印象に残ったエピソードについて手短に書く。クローンである柳楽(長谷川諒)と花城(Ebicha)の無意味な言葉遊びの場面だ。新しい諺を作って遊ぶのだが、これは人間観を表していると思った。人間と動物を分けるものは言語だという考え。諺を作り無意味な言葉遊びをすることなど動物にはできない。人間にだけ可能なことだと。つまりクローンを人間と区別し差別するのはよろしくないとういう作中のメッセージである。ちなみにヨハネによる福音書は「初めに言(ことば)があった」から始まる。そして「言は神と共にあった。言は神であった。」と続く。こちらも聖書を意識したエピソードだったのかもしれない。

今作のように聖書の世界をしのばせた(公式はそうと言ってはいないが)演劇作品は珍しいと思う。ボクが小劇場に通える体のうちに(腰やお尻の負担大)、この手の作品を書ける劇作家が札幌からどんどん出てきてほしいと思うのだが、実際は難しいだろう。札幌演劇界は宗教的なものにあまり関心がないようなので(扱ってもカルトとして)。なんて思ったらテレビドラマ『ペテロの葬列』を観たくなってきた。もう十年以上前の作品。罪の赦しに感動したこと(クリスチャンになりたいくらいに)は憶えているが具体的には何も思い出せない。今年のどこかで観返したいものである。

 

2025年10月5日(日)12:00                                                 演劇専用小劇場BLOCHにて観劇

text by S・T

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