このお芝居は、人間が何かによって支配され、自分の思考が何者かに操られてしまうような、遠い未来に起こるかもしれない話なのかもしれない。あるいは、コピーロボットという言葉があるように、ロボットが人間に置き換えられただけと思えば、近い将来の話なのかもしれない。
三次元と四次元が交錯しつつストーリーは進む。三次元に住む女性が、頭にICチップを埋め込まれる。このことによって自分の脳(感じること、考えること、記憶していること)がコピーされ、他人の脳に移植される。自分の意識が、自分一人だけのものではなく、姿形は違っていても脳だけは同じ状態になる。これが、ときに苦しさを覚え、精神的に不安定になる。
一次元は直線だけの世界、二次元は平面の世界、三次元は空間の世界。四次元とはどんな世界なのか。お芝居では、それを人間の世界が分岐された仮想世界として描かれていたが、人のような機械、機械のような人の行く末を四次元と捉えていたのだろうか。
ところで、このお芝居は、ストーリーの面白さよりはセリフの面白さに特徴がある。
「わずかな差が大きな違いを生む」は、お芝居も最終盤にさしかかった頃に語られるセリフである。このお芝居には、警句的な、あるいは諦めを含めたセリフが随所で使われる。「わずかな差」は、どこかで聞いたことがあるような言葉ではあるが、描かれた世界の中で聞くと、妙に説得力を持つ。また「何の物語もないこんな世界、どうやって生きていけばいいのか、分かりません」というセリフも、妙に頭に残った。一人一人に物語はある。それが小さなことでも、生きている限り物語はある。しかし「何の物語もない」と開き直られると、それはどんな世界なのかと考えさせられてしまう。こんなセリフがちりばめられたこのお芝居の面白さは言葉にあるといってもいいだろう。
出演は、ともか、齋藤龍道、吉田茜、田中杏奈の4名。いずれもいいお芝居をしていた。とくに齋藤龍道さんは声もよく、お芝居も手堅さを感じた。もちろん、女性3名も、決してくさいセリフ回しではなく自然にお芝居をしている印象を受けた。
また、4人とも滑舌よく、時々大声で叫ぶ場面もあったが、声が割れることなく、スタジオ内に響き渡った。大きな動きが少ない演出だけに、一挙手一投足が難しかったと思うが、4人とも無駄のない動きをしていたと思う。
残念だったことは、一人で二役、三役をこなしていたが、これが観るものを混乱させたかもしれないという点。かくいう私も、主人公だけは一役だったが(と思う)、他の役柄は『あれ?これは誰?』と何度も戸惑った。相手の名前を呼ぶことで役柄の違いを表現していたが、気付いたときは次の場面に移っていたこともあった。
スタジオ内も舞台も白い世界。ステージの離れたところにベッドとソファとベンチとブランコ。すべて白。4人の役者たちの衣装も白(少し茶系統の色が付いていたようだが)。そしてお芝居の一番最後、主人公がICチップを埋め込まれた自分を受け入れた場面では、主人公とその父親の衣装が色付きの衣装に変わる。スタジオやセットが白のままだけに、この色付きの衣装への変更はうまい演出だと思った。
また、演出という点では、お母さんは、いつも頭に四方にニコスプーンのような目と口が描かれた白い箱をかぶって登場していたが、箱に描かれた目と口が笑っているように見えていても無機的で不気味な印象を受けた。この演出も面白かった。
一方で、途中、2回、スクリーンを使ってビデオを流す演出もあった。ビデオは色付きの動画で、張りつめた中で舞台ではなくビデオに目を向けさせる効果はあったが、この演出が何を意味しているのかは分からなかった。
総じていえば、苦手な内容のお芝居だった。想像力が試される内容だったからだ。お芝居の後半はまだしも、前半は何が何だか分からずにただ観てるだけという塩梅だった。想像力に乏しい私にも分かるように、お芝居の冒頭部分で手短にシチュエーションをまとめて欲しかった。
いずれにしても、11公演を4人で駆け抜けたことに賛辞を送りたい。
パスプア『ヒューマシーン・セオリー』(脚本・演出:小佐部明広)
上演時間:91分
2022年12月11日15時
カタリナスタジオにて
text by 熊喰人(ゲスト投稿)