「野心的」という別の顔 yhs『白浪っ!』

サラリーマンは歌舞伎義賊の夢を見るか?

舞台は夢、幻のごとく立ちあがり、消えていく。

たとえば舞台上、自分はサラリーマンだと言えばサラリーマンに、義賊だと言えば義賊になる。

場所は日本と言えばそうなって、江戸時代が400年つづいてる現代なのだと言えばあっという間、歴史改変ファンタジー、大エンターテイメントのはじまりだ。

yhs 40th play『白浪っ!』。舞台とはなにか、その疑問に「エンターテイメント!」と答える。

楽しく、面白く、笑える110分。「こういうのがやりたかった!」という制作者の夢と「こういうのが観たかった!」という観客の夢が合致した幸せな作品だ。

ときは現代、徳川の世がいまもつづき、江戸の文化と現代の科学が融合した、いわばネオ平成。義賊「白浪五人男」は数年前の大捕物で「弁天小僧」(深浦佑太[プラズマ・ダイバーズ])を失い一同は散り散りになっていた。「力丸」(櫻井保一)はデパートの紳士服売り場の主任として世を忍んでいたが、訪ねてくる意外な人物が……。

携帯、SNS、仮想通貨、江戸の文化に現代ツールが飛び交って、派手かつ華やかに進んでいく物語だ。

いろんな面白さのある舞台だろう。だけどなんと言っても白眉はパラパラと入れ替わる現実と夢の構造だ。力丸と同じく世を忍び、しがないサラリーマンとなっている「利平」(能登英輔)は「白浪五人男」離散の原因となった大捕物の夢を見ている。その夢が、物語の回想の役割を果たしているのだけど、あるときなど夢の主体(夢を見ている人物)が利平から別の人間に途中で入れ替わったりして「おい、いまなんかすごいことやったぞ!」と前のめりになってしまった。スリリングな劇構造だ。

入れ替わるのは現実と夢だけじゃない。アナログな「変わり身の術」が何度も繰り返されていくうちに、人物と人物の境目や、敵や味方の境目があいまいになっていく。

また、男が女役をしたり、女が男役をしたり、あるいは内面的に男女の境目があいまいな人物が登場したり、性別の境も溶けていく(そもそも弁天小僧は女装を得意とした盗賊だ)。

さらに利平の“にぎやかな”子どもたちのシーン。幼い子どものはずなのに大人のような態度、つまり年齢の境目も壊していく。

いっけん面白いだけのエンターテイメント作品と見せかけておいて(それはそれで全然問題ないけど)、実のところその裏には「野心的」という別の顔がひそんでる。yhsの変わり身の術に、観客もいっぱい喰わされたというわけだ。

本作はいい役者の多い贅沢な芝居。役者を見るだけで堪能できる。

櫻井保一は主役を張れる力量、声がいい。

白浪五人男のリーダー・小林エレキは貫禄。欲を言えば彼がなぜ数年ののちまだ義賊にこだわるのか、そこを描いてほしかった(脚本的に)。

脇を固める氏次啓、重堂元樹(演劇公社ライトマン)は重要なクサビで、物語をぎゅっと締めた。

城島イケル(劇団にれ)はまるで幻のような役(ここも生者と死者の境はあいまいだ)。

棚田満(劇団怪獣無法地帯)の呑気な将軍は一瞬殺気を見せる、そのメリハリ。

青木玖璃子はいかにも物語、いかにもお芝居というデフォルメのある役で生きる。

テツヤ(月光グリーン)の長躯はyhsの男性役者にない特色でいい配役。主題歌はさすがにカッコ良く場面も映えた(もっと音楽劇的でもいいと思ったくらいだ)。

深浦佑太(プラズマ・ダイバーズ)は色気のある弁天小僧。ほかの人物と違う、あのナチュラルなセリフ回し!(それだけとってみてもやはり油断のできない劇だとわかる)

しかし本作はやはり能登英輔だろう。徹底的に小市民を演じ、いっさいのケレンを排除された上での存在感。あえて見せない脚本・演出も見事だった。僕は照明を浴びる一台のノートパソコンが、だれよりも見得を切っているように見えた。

サラリーマンは歌舞伎義賊の夢を見るか?

見たんだ。

 

公演場所:コンカリーニョ

公演期間:2019年2月2日~2月9日

初出:札幌演劇シーズン2019冬「ゲキカン!」

text by 島崎町

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