原作ファンの視点から 座・れら『アンネの日記』

 10代の頃耽読していた「アンネの日記」。訳は皆藤幸蔵によるいわゆる旧版。「アンネみたいに日記帳に名前を付けたら少しは良い文章が書けるだろうか」と日記帳を新調しては最初の数ページを破り捨てることの繰り返し・・・そういえば最近はほとんど読み返さなくなった。数えてみるとアンネの享年の倍以上生き永らえてしまったのだ。こうして偶然舞台を観る機会をいただきあの頃の感情が呼び覚まされるだろうか、でも戯曲版は読んだことがないし・・・期待40%不安60%くらいでやまびこ座へ。

 「あの<隠れ家>の8人が動いている!しゃべっている!」初めはただそれだけでテンションが上がってしまった。とりわけ印象的だったのは歯医者のデュッセルさん。「日記」でアンネが何度も何度もこき下ろした同居人だが、少し遅れて<隠れ家>にやって来た人物で独り身でもあるためかやや影が薄いように感じていた。肉体を得たことで「若い人に嫌われる系のオッサン」像がより明確に。

 ただどの人物にも言えることだが、基本的に彼らの動きは大仰でどこかスラップスティック調。例えば「日記」にはない不名誉なエピソードを与えられてしまったファン・ダーン氏やアンネの母エーディット。確かに空腹・飢えに関しての描写は多いけれど<隠れ家>の大人たちはここまで野放図に感情をぶつけ合っていなかった(ぶつけられなかった)はず。単調な<隠れ家>での生活に「見せ場」が必要だったのだろうが、夜間とはいえこんなにドッタンバッタンしてたら普通バレるでしょ?と突っ込みたくなってしまう場面が多々あった。

 最初、このスラップスティック調の人物描写は、辛辣なアンネの目線で住人たちを再構築した結果なのかと思っていた。ところが当のアンネとペーターが恋愛関係に陥る場面に差しかかってもこのスラップスティックというか、観客の笑いを促すような流れは変わらなかった。お部屋デートのために目一杯おしゃれするアンネ。そんな「お花畑」な調子で「ジャーナリストになりたいの!!!」と宣言されても・・・「日記」ではこの辺りからアンネは非常に内省的になり、ナイーヴで大人びた描写が続く。その辺りのアンネの精神的、知的な変化を本公演で目にすることは出来なかった。

 そもそも日記帳の扱いから気にはなっていたのだ。日記帳を父からプレゼントされたタイミング、日記帳を<隠れ家>に残しておいた理由、どちらも史実とは微妙に異なる。特に後者の場面はもともと「後世に残すため」というアンネの意志はあったにせよ、その後「平和の象徴」と神格化されたアンネ像をなぞるもののように思われた。私がかつて羨望したのは第一に優れた書き手、書くことで自らを鍛錬し生きる希望を失わなかった少女としてのアンネだった。

 本公演ではおばあさんが13歳の孫娘と一緒に「アンネの日記」を朗読するという演出があったが、こちらもどちらかというと「この悲劇を忘れないように」という方向性からのものだったと思う。そうした前提も理解できる(私も「アンネの日記」から「夜と霧」のような書籍を手に取るようになった)。でも一方で13歳の少女の感受性に任せてみたい気もした。現代の13歳はこれをどう読むか、ちょっとした感想を挟みつつ読み進めるといった演出があっても面白いように思った。私が観た回だけかもしれないが、中学生や高校生の観客はほとんど見かけなかった。
 
 
11月3日11時 札幌市こどもの劇場やまびこ座

投稿者:赤い手袋(30代)

text by 招待企画ゲスト

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