秀逸:劇団竹竹『マクベス』

竹竹と書いてチュクチュク。竹の硬さを思うと何だか合わない音のように思われる。タケノコがニョキニョキ、チュクチュク(すくすく)伸びていく感じならまあ納得かなあ。と劇団名を見ていた。演出家のキム・ナギョン氏と8名の俳優。うち「イさん」が4名いる!さて、その芝居は、大地に張られた根、凛としてまっすぐに立ち、風にさやさやと揺れる葉、を感じさせる、まさに竹。力強く清涼感ある熱演であった。詩と身体表現を備えた本格的な演劇だった。

学校の教室のような椅子と机。屠殺場の肉吊しをイメージしたという長い金属棒。それぞれの小道具をうまく使っていた。ロウソクも効果的。始まりに組まれる椅子のオブジェは、一脚の椅子の上に広がるように椅子が積み重ねられ、不安定極まりない。それが、マクベスの砂上の楼閣、不安まみれの野望を表現しているようで面白い。

マクベスといえば、血生臭く、色なら血の色である赤、のイメージがある。ところが赤が出てこない。本作品の舞台や衣装は、黒や茶色の地味な色でまとめられ、透明な水や黒い影で、血を表現し、赤を想像させた。実にスタイリッシュ。俳優陣もしっかりと安定した演技だった。爪や指先で床をカリカリ、コツコツを叩いて音を出したり、膝や胸を叩いて身体表現したりと、飽きさせない演出だった。

ただ、不可解だったのは、マクベス夫人が突如白いドレスで登場したかと思うと、妙に明るい音楽が流れ、後ろで数人が、エグザイル、いや、千手観音の舞踏のようなパフォーマンスを見せた場面だ。おどろおどろした殺人と苦悩の雰囲気からワンシーンだけ一転した。何だったんだ、と思う間に本筋に戻ったように思う。そもそも、マクベス夫人が妊娠していたり流産したり、という原作にない状況を加えたのはなぜか。これは、あの夫婦に子供がいたら状況が変わっていたか、という面白い想像を搔き立てる。

終盤、マクベスをスパッと殺さず、目を潰して荒野に放り出す、のは「リア王」のグロスターを、不具者のふりをして復讐の機会を待つマクダフは、同じく「リア王」のエドガーを、それぞれ思い起こさせる。キャラクターに関係性はないが、このシナリオは、マクダフがマクベスを戦いでスパッと殺すより、より深い復讐への怨念、恨を感じさせる。

「マクベス」の思い出。野心、殺人、罪悪感、政治、愛国、正義、裏切り、歴史の中の人間のちっぽけさ、家族の悲劇、復讐、超自然、魔女・・ シェークスピアの「マクベス」に描かれるものは深く多彩だ。昔見た本家イギリスのロイヤル・シェークスピア・カンパニーやグローブ座の数々の作品。目玉を手のひらに持ってものを見る魔女とか、スーツを着てブランコに乗るマクベスとか。狂ったように嘆き悲しむマクダフにうんざりしたこともあった。日本語版では、蜷川マクベスは、誠実、壮大で面白かったし、大竹しのぶのレディマクベスが素晴らしかったのは周知の事実。野村萬斎も演じたが、終始堂々としたマクベスで、私は不覚にも寝落ちした。昨年は、新たにマイケル・ファスベンダー主演で映画もあった。古典だしヒットしなかったが、美しいスローモーションで描かれる戦いのシーンとリアルな王の殺人のシーンで、「戦争で敵兵をブッタ切る人間が、一人の人間を殺した罪深さに怯える、」という人の矛盾と、良心とは何に対して抱くのか、といった人間の真実に迫った。個人的には最も感動したのは、2015年に来日したロイヤルオペラのマクベスだ。音楽が情感に訴えるから、マクダフの歌うアリア、「ああ、父の手は」に泣けた、泣けた。美しい演出だった。

さて、この劇団は日韓劇場祭交流事業で札幌劇場祭TGRに招待されたとのこと。交流事業というからには、次は札幌の劇団がソウルの劇場祭に登場することになるのだろう。エラいもん呼びましたねえ。チュクチュクがこんなに素晴らしい作品を披露したので、ハードルはとても高い。さて、どの劇団が行く?

 

2017年11月22日19:00 パトスにて観劇

text by やすみん

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