【特別寄稿】ある視点 ー私的俳優論ー  寄稿者:しのぴー

僕は9年間、スペシャルドラマのプロデューサーをやっていたのですが、2つのキャスティングを手がけていました。一つは、ドラマそのものと言える脚本を書いてくれる作家です。全国放送される地方局がつくるドラマなので、もちろん視聴率は取らなければなりません。だから、作品至上主義の立場を僕はとりません。でも、視聴率をとるためのテクニックを持っているシナリオライターとは2回しか一緒に仕事をしませんでした。実際は同じ人に2年続けて書いてもらったので、一人としかおつきあいしていないことになります。

何の知識もなく「業務命令」でドラマプロデューサーを押し付けられた僕は、テレビドラマが好きじゃなかったこともあって、勉強のために単館系で監督の作家性の強い映画、それと商業演劇から小劇場の芝居まで本当によく観ました。東京出張が多くなったからです。札幌-東京を年間100回搭乗、つまり50往復した年もあって、今は取り壊されてないのですが青山一丁目の角にある小さなビジネスホテルを定宿にして、夜は下北沢、新宿あたりに出没して、映画はオールナイトで結局ホテルに朝帰りということもありました。つまり、ほとんど会社というか、家にいなかったのです。

そうして出会った演劇の劇作家に、自分の書いたへなちょこ企画と原案を読んでもらって、興味を持ってくれた方と一緒に本をつくりました。意気投合して、タイミングが合わなかった方も少なくありません。モダンスイマーズの蓬莱竜太、ONEOR8の田村孝裕、そして天才だと思った“劇団、本谷有希子”の本谷。劇作家・演出家と一緒に本をつくる作業はとても苦しくて、時間もかかるものでしたが、僕にとって劇的世界へ深く潜る力、台詞の奥深さや、役者眼を養う上で大きな糧となりました。

さて、いよいよもう一つのキャスティングです。僕たちのドラマの場合は、作家が決まって一緒にシナリオ・ハンティングが終わった段階で、お互いに主役と主役回りのキャストイメージを出し合いました。もちろん、俳優さんのスケジュールNGになることは仕方ないのですが、主役はじめアタマ4番手くらいは、2番手候補も含めお互いに見事に一致することに毎回驚きました。役者の持つ匂いというのでしょうか、存在感というのでしょうか、そういう嗅覚はドラマをつくる度に磨かれていったような気がします。作家と役者がキャスティングできたら、その作品の8割はもう出来たも同然です。演出家は、残る2割の仕事で作品を100%以上、150%にも、200%にも膨らませる責任があります。演出家は孤独だなぁといつも思っていました。

随分と前説が長くなりました。僕はお芝居を基本「役者押し」で観ています。もちろん作品世界や、その世界を生み出している台詞(つまり本です)、舞台美術や照明・音響などトータルで演出が成立していなくてはならないのはもちろんですが、役者がいないと結局芝居は始まりません。演劇とは台詞のことだと僕は信じて疑いません。

じゃあ、役者とはなんでしょうか。僕は身体性そのものだと思います。そして、その生身の躰を投げ出してどう舞台に台詞を積んでみせるかが役者の力量だと、これも信じて疑いません。身体性ってなんだ、といわれると説明しにくいのですが、舞台を一瞬にして支配してしまう才能のことだと言えばいいでしょうか。努力して研鑽して身に付くものもあるのかもしれませんが、僕は天性のもの、役者として舞台に上がる人は、大なり小なり天賦の才があると僕は思うのです。

例を挙げましょう。プロデューサーをやっている頃、同じ時期に松たか子と寺島しのぶの舞台を観る機会に恵まれました。当時、松はテレビでピカピカの売れっ子女優でしたが、寺島はどちらかというとテレビ向きではなく(実は、デビューは芸術祭参加のテレビドラマで、役所広司の相手役を全裸シーンもある体当たりで演じました。この作品はこの年の芸祭大賞を受賞しました)、女優としては地味な感じだったのです。ですが、舞台になると立場は真逆でした。寺島には、舞台に現れた瞬間に劇を支配してしまう天性の風圧がありました。道具も大きく、舞台上でとても見栄えします。これは彼女が出演する映画でも強く感じられます。極めて華があるのです。松は由緒ある正統派の女優ですが、寺島のような華は感じられませんでした。

よく「役を演じるときに、役になりきるとか役が下りてくる」などと言う人がいますが、僕はそのようには思いません。役者にとって一番大切なことは、役を演じることでも、役になりきることでもありません。本と演出家の求める以上の想像力で、おのれの台詞をひとつひとつ、爪痕のように刻み、舞台に積んでいって、劇的世界が指し示す大きな何かを観客に提示することだと思うのです。これが、役者にとっての身体性に他ならないと僕は思います。

「TGR札幌劇場祭に俳優賞を」との議論は、劇場連絡会の中では早くからあったようです。極めて狭い札幌演劇界隈の人間模様を「忖度」してなかなか踏み切れなかったのだと想像します。今年の俳優賞の新設は、2年目の大賞審査員を務めた僕にとっても大変喜ばしく、役者さんたちにとっても待ちに待った賞だったのではないでしょうか。

劇団創立20周年のおめでたい節目で大賞を勝ち取ったyhs『白浪っ!』は、実にあっぱれな作品でした。演劇祭でエンターテインメント作が大賞をとるのは本当に難しいと思うからです。僕は私事あって事前審査会に参加していないので詳しい状況やニュアンスは知る由もないのですが、もしかしたら優秀賞を受賞したトランク機械シアター『ねじまきロボットα〜ともだちのこえ〜』(作・演出:立川佳吾)、座・れら『アンネの日記』(脚本:ハケット夫妻、潤色・演出:鈴木喜三夫)と僅差だったかもしれません。また、招聘作の韓国・劇団竹竹の『マクベス』が大賞にエントリーしていたら、結果は違っていたかもしれません。
作・演出の南参は、かなり悩んだと思うのですが、自分の持ち札をすべてさらしてストレート勝負に出たことが良かったと思います。極めて高い演出力で奇想天外な物語を、個性的な俳優陣を得て、文字通り縦横無尽にかぶいて魅せてくれました。

初めての俳優賞を受賞したyhsのプレーヤー、櫻井保一は、振れ幅の大きな持ち味と、役者としての引き出しの多さで以前から注目してきたのですが、持てる身体性をいかんなく発揮して、新境地かもしれませんが、主役の重責を見事に果たしました。櫻井の『白浪っ!』だったと思います。

もう一人の俳優賞は、MAM『父と暮らせば』(原作:井上ひさし、演出:増澤ノゾム)でヒロイン、美津江を熱演した髙橋海妃が受賞しました。原爆投下後の広島を舞台にした、幻影である父親との2人芝居。増澤の演出が精緻で出色なのですが、応えた髙橋は見事でした。ストロークの長い芝居の端正な佇まいといい、父親(ベテランの松橋勝巳も好演)と言い争う葛藤が溢れ出る台詞術といい、長台詞を吐き切る力量と感情の露出を巧みにコントロールしながら、芝居という時間軸を生き、エンディングでは自らの魂の再生へ実に印象的で味わい深く両手を伸ばして魅せました。札幌ではなかなか見ない女優さんだと思っていたら、活動の拠点は東京だと聞いて、妙に納得しました。僕自身、櫻井と髙橋の2人をイチオシしたので、新設された俳優賞が2人の役者に贈られたことは審査員冥利に尽きる思いでした。

今年のTGR札幌劇場祭は、去年と比べて豊作だったと個人的には思います。俳優で言えば(順不同)、優秀賞を受賞したトランク機械シアター『ねじまきロボットα〜ともだちのこえ〜』の原田充子、座・れら『アンネの日記』の早弓結菜の素材感、信山E紘希のペーター。特別賞を受賞したMAM『月ノツカイ』の遠藤洋平の屈折感、本間健太の芝居巧者ぶりがとても印象に残りました。大賞作の『白浪っ!』では、客演の深浦佑太の人物の立ち方が凛としていましたし、月光グリーンのテツヤは、yhsの創立メンバーだとは知りませんでしたが、あのタッパ、異様なメヂカラ。大したものです。入賞はなりませんでしたが、イレブンナイン ミャゴラ『やんなるくらい自己嫌悪』(作:納谷真大、演出:明逸人)では、若手の成長ぶりも好感しました。

個人的には、とっても扱いづらい女優を観るのが大好きです。知り合いのドラマプロデューサーが言うには、「この世で一番嫌いなもの。一に女優、二に女優、三、四がなくて五が女優」だそうです。実に同感。実際、ドラマをやっている時に、ある女優さんに土下座したこともあります。でも、やっぱり魅力的。男優もいいけれど、やっぱり女優がいないとつまらないですね。女優がいなかったら、多分、芝居なんか観に行かないと思います(笑)。
札幌にも、多くの魅力的な役者がたくさんいます。主役だけが役者ではありません。色気のある、老獪な脇がいてこそ芝居はより大きな熱量を放つもの。好きな役者を応援し、新しい役者を発見する。これも演劇の醍醐味だと思うのです。TGR札幌劇場祭の「俳優賞」が、札幌演劇人にとって、憧れの賞になるよう育てていって欲しいと思います。

text by しのぴー

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