この作品、祖父母の代以前から北海道に住んでいる者にとっては重いのだ(少なくとも私にはそうだ)。
2016年のTGRで『珈琲法要』を観たときは、北海道の歴史の中で払われてきた犠牲を力ある演技で突き付けられ、滑稽な場面が登場するたびに「いや笑えないのだが」という気持ちになりもした。アイヌ女性の恨みの叫びは歴史の場面ではなく、今ここに住む「わたしたち」への恨みだ。寒さへの備えもなく北方警備に駆り出された津軽藩士の死を悼み、土地利用の自由を奪われたアイヌの民の前で目を伏せる以外に、何ができるだろう。
強烈な印象と同時にいくつかの違和感も抱き、それについて書きもしたのだが、それでも『珈琲法要』は、まだなにかスッキリとしないものが残る作品だった。
演劇作品は基本的に一期一会、その日そのときに観て受け取ったものが全てだ。モヤモヤはそのまま宙に浮いておしまい。だが『珈琲法要』はTGR大賞を受賞し、この度札幌演劇シーズンでの再演が叶った。さぁ、この作品を観た北海道民はどのように思うだろう? 私はその感想を知りたいと思っていた。
もちろん私自身も今回の再演に足を運んだ。観劇コンディションは万全ではなかったが、それでもTGRで抱いた疑問は演出上のさじ加減で解消しているように思えたし、シリアスと笑いのバランスは、今回は許容できるものだった(役者が素の顔をみせて笑いをとる場面は少々多いと思ったが)。
動物の動きを真似るアイヌ女性・弁慶(菊池佳南)の表現の巧みさに目を奪われ、忠助(山田百次)・文吉(河村竜也)の寒さや望郷を伝える演技に引き込まれた。
一方で、物語の仕立てがわかった上で(つまり珈琲の場面は史実に若干のフィクションを混ぜてイベント用に盛り込んだエピソードであり、焦点は法要ではないと理解した上で)観ると、全体としては、何か遠い感じがするのだ。TGR2016では「我が土地の物語」として強い印象を持ったが、今回は「東北の宿で聞く昔語り」のよう。そうと考えてみれば、物語の中ではこれといった心理的な変化は描写されていない気がする。いるとすれば、凄惨な体験をして生還し、記録の門外不出を言い渡される文吉の心の中だろう。ここが最も劇的だ。
そしてまた、やすみんの感想を読んで「一番のモヤモヤはこれだったのか!」と膝を打つ思いがある。
TGR2016で「歌いつつ首を絞めるのは慈悲か、恨みか、相まった感情か」と疑問を持った、弁慶の行動。「首を絞めて恨みごとを言う」この行動が、私自身がアイヌに持つイメージとは大きく異なるのだ。
1807年の道東域のアイヌたちがどのようだったか、専門家ならぬ私は知っているわけではない。だが開拓初期に、冬の旅でアイヌに助けられた、組織から逃げ出したところをかくまってもらった、といういくつものエピソードの存在は知っている。また民話に出てくるアイヌ像からも、勝手ながら「アイヌは人を信じやすく情深かったからこそ簡単に搾取されたのではないか」というイメージを持っている。
だから弁慶の行動には違和感があるのだ。もちろん、「馬の目を見て子を思い出し泣く」につながるような和人への個人的な深い恨みが、弁慶にはあるのかもしれない。でもそれなら、忠助を子守歌で宥めずに譫妄のまま放置すればよいのだ。いわば騙し討ちのような行動は、私がイメージするアイヌらしさにはそぐわない(武士がみな武士道に生きたわけではないように、アイヌもいろいろだとはわかっているが)。
しかし私が弁慶にそのようなアイヌらしさを求めてしまうのは、かつてアイヌが自由に利用していた土地に、祖父母の代から住んでいるという後ろめたさがあるから、かもしれない。
加害者(未遂だが)となった弁慶の恨みを、私はただ反論しがたく聞いた。だが虐げられながらも関わる者に情をかける弁慶の嘆きであれば、私を泣かせたかもしれない。そしてそう思うことさえも、直接ではなくとも分類すれば加害の側になる私としては、後ろめたいのだ。
北海道にルーツを持たない人は、こういった感情とは無縁にスパッと物語をみたのではないか。
『珈琲法要』は私にとって、とても気になる作品だ。
あなたはどんな感情・感想を持っただろう。
私はそれが知りたいと思っている。
2018年1月27日(土)18:00 シアターZOOにて観劇
text by 瞑想子