円山ドジャース「誰そ彼時」をコンカリーニョにて。静かに重い話が続くかと思えば、賑やかな落語風の話もある、劇場を自在に使った感のあるお話。忘れてしまった事で「自分にとって一番好きだった頃の父」になった父親に、自分と認識されない事の哀しみはいかばかりか。ラストの会話がせつない。
芝居は通常のものからコントめいたもの、前衛っぽいものまで様々。時々素に戻ったような語りの場面があったりするけど、それもまた面白い。いろんなパターンの演劇の表現が派生的な形で出てきている感がありました。劇場も広く使っていて、観ていて足が竦みそうに。
アルツハイマーによる忘却の他にも、無視に近い意図した忘却、自らの志の忘却、水に流すという意味での忘却(あと落語のオチとしてというのも)と様々なものが出てくる。忘れる事で悲しんだり嘆いたりする人も、本人だったり、親族だったり様々ある忘却のドラマ。
一方で忘れてしまう事があるからこそ、より思いが強くなるかつての記憶。残された劇中で再現される記憶は、美しいものが多いけど、実際はそれ以上に辛い記憶なんかもあって、それを意識的に、あるいは無意識に思い出さないようにしているだけなんですよね。
終演後には初日だからか、客席から希望者を募っての始球式も。ロシア人という女性が見事な投球で締めました(ロシア人で投手だとスタルヒンだよなぁと思い出したのは帰宅後)。初日は客席が少し寂しかったけど、このままでは終わらないはず。
- 2018/02/01 19:30
- コンカリーニョ
- 約1時間50分
text by 小針幸弘