性善説の解釈? 弦巻楽団 舞台に立つ『ハムレット』

演劇研究講座の発表としては、大変よくできている舞台だった。
…ということを先にお伝えしつつ、以下は講座発表ということへの忖度が少なめな、普通の観客目線の感想となる。箇条書きにて失礼。
 
 
●「舞台に立つ」の観劇は『コリオレイナス』『リチャード三世』に続き3作目。これまで同様の一本調子の早回し…と思わせた立ち上がりだったが、今回は緩急(というよりは強弱?)があった。経験と技量のある役者にはそのような演出が付いている模様。部分的に代役が出ているような微妙なちぐはぐ感はあったが、声量も滑舌もほぼ問題なく、台詞はきちんと客席まで届いていた。しかし、聞こえていても受け取れずに滑っていく部分もあった。

●クローディアス(田村嘉規)とガートルード(内匠勇太)の造形に、演出家(弦巻啓太)の性善説的な作品解釈がうっすらと見える気が。
 王は社内政治を切り抜けてトップに立った、それなりに頭の良い企業経営者風。はかりごとも一国の主なら当然の範囲という落ち着きぶり。王妃は体面的で主体性はないが、それなりに息子を愛する母のよう。両名には後ろ暗さがほとんど見られず、本人としては正義を行っている感覚を持ってやむなく兄王を弑し(夫を裏切り)、甥を消そうとしているように見える。であるなら、ハムレットとの対立軸から演出家は何を見せようとしているのか? というところまでは、残念ながら受け取れなかった。

●本公演でメインキャストを務めてきた役者が参加し、作品世界を支えている。というよりも戯曲のタイプを考えたら、もうこれは村上義典のハムレットへの挑戦や遠藤洋平のポローニアスを観る芝居と言っていいような。

●ハムレット(村上義典)は理知的で繊細(神経質)な造形。『シャーロック』のホームズとか、『容疑者Xの献身』(ガリレオ)の湯川准教授を連想した。(白くないけど)白衣のせいか。
序盤から中盤にかけてのモノローグ部分では、言葉にイメージを持って語っていないような平板さを感じた。が、後半に入って物語が動くにつれて解消された。オフィーリアと絡む部分の演技などは堂に入ったもの。
『ハムレット』で主役を演ずる機会などそうはなかろう。一期にかける気合いを感じるような演技に満足。

●ポローニアス(遠藤洋平)は、作品中で最もキャラが立っていてわかりやすく、物語の推進役となっていた。遠藤はよく動く軽みのあるキャラが得手と感じていたが、終始身を低く構えていることで役柄なりの重さを加えていた。あの姿勢をキープするのは大変だっただろう。熱弁のシーンで手の動きが同じパターンになりがちなのはちょっと気になった。

●フォーティンブラス(深浦佑太)は、出場が少なくもったいない配役のような気がしたが、納得感のあるラストに必要だった。わかりにくくなりがちなフォーティンブラスの立ち位置が明快。押し出しも十分。

●クローディアスは声の重みと響きが「王」にピッタリ。ガートルードを男性が演じるとは驚いたが、雰囲気も、全体のバランスとしても適役だった。ちゃんと品のある女性に見えた。

●墓掘りは場面も歌も素敵だったが、掘り出された頭蓋骨が驚きの白さだった。臭わなさそう(笑)。むしろ茶色いボロ雑巾の塊でお願いしたい。

●役割解釈を現代に対照させての記号的な衣装設定が面白かった。上の命令に諾々と従う下っ端にビジネススーツとか。演劇は「見立て」、連想の楽しさがあった。

●正直に書くと、演出で補いきれていない不快なカ所もあった。講座発表としてはやむを得ない成り行きであり、演出家も承知していることではあるだろう。むしろそこが不快なのは他の出来がいいからでもある。講座の実施と継続、シェイクスピアへの真摯なチャレンジ、いずれも好感が持てる。応援したい取り組み・発表。

●観たのは前楽で、錬られていながらダレておらず弾けてもいない、いい上演回だったと感じた。
 
 
4月1日14時 シアターZOOにて観劇

text by 瞑想子

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