僕は指定席じゃない限り、小屋に入ると舞台の建て込みを見る癖があります。美術ってとっても大切なので、それを眺めながら、一体どこでどんな劇が起こるんだろうか。どこに座れば一番”観やすい”だろうかと考えるわけです。だから、開演時間まもなく劇場入りして、座ると劇のリフレットに書かれた演出家ノートなどを読みながら、地明かりが落ちるまでを楽しむのです。舞台セット立派です。これ、東京に持っていくんですよね。びっくり。リフレットにもありましたが、この芝居は完全書き下ろし新作ではありません。99年に大泉洋主演で上演された『アルツハイパーJ』がベースになっていて、市民劇や自分の組のために、改題しながら、時間をかけて改編してきた作品です。その間には、作家であるイナダ自身にも北海道にも多くのことが起こったでしょうし、日本も人口減少少子超高齢化社会という恐るべき事象に直面しています。僕自身、父が91歳で母が85歳、認知症にはならなくとも老いというものは親にとっても子にとっても決して受容し難いものです。芝居の台詞であるように大阪万博を控えた北海道の地方都市。国鉄時代ですね。廃線になった駅を下敷きに親の老いと家族の葛藤が描かれます。イナダらしく前半で笑わせてくれて、後半で人情に持ち込みじんわりさせてくれるパターンは健在です。でも、なんだかしっくり来ませんでした。多分、僕の中で人物の情感の移ろい、家族だから…という飲み込んでしまったり、吐き出してしまう感情のやるせない揺れがつながらなかったからだと思います。重いお話だったからでしょうか。妻が倒れ自身も記憶が薄れていく老人を武田晋が好演しています。台詞回しのトーンが絶妙で、長ゼリフは聞かせました。物語は劇中劇の回想という形で進み、徐々に妻との出会い、50年にも及ぶ妻への思いが描かれるのですが、ちょっと徐々に物語に劇が飛びついている感じがありました。特に、藤村忠寿演じる同居している息子(長男)との関係性は裏テーマだと思いますが、大きな劇の動線としては隠れているので、ラストは武田押しで十分感じたと思います。藤村は、以前より存在感がありますが、感情を声量に置きすぎてしまって、もっと緩急あっても良かったのではないでしょうか。もともと声質の良い人なので、そこはイナダに演出して欲しかったです。役者で言えば、パインソーの赤谷翔次郎。大好きです、ヌルっと感が。池江蘭の切なさも味わい深かったです。まもなく平成時代も終わります。その中で、昭和どストライクな背景が本当に必要だったのでしょうか。東京公演があるからかもしれませんが、この芝居は十分過ぎるほど現代を撃っていると思います。イナダの力量を持ってすれば、もっとリアリティ溢れる、ある意味残酷な家族劇になったように思えてなりませんでした。
5/7(日)千穐楽 マチネ コンカリーニョ
text by しのぴー