あたたかい拍手だった。
いままで観てきた舞台で、賞賛の拍手はたくさんあった。だけどこんなにもあたたかい拍手が鳴り響く舞台は、そうはなかった。
この拍手は、客席から舞台へ向ける拍手というよりも、観客ひとりひとりが舞台と一体となり、苦しみや喜びをわかちあった拍手だった気がする。
THE36号線『大きな子どもと小さな大人』。コロナ禍まっただなか、市営住宅の一室で、新型コロナに罹患した父親と障がいを持つ子どもが暮らしている。
子どもは巨大だ。2~3メートルはあるだろうか。発達の遅れがあり巨人症でもあるという設定なのだが、実際にこの大きさの子どもがいるというよりも、この子が外の世界からどう見られているかを端的に表しているんだろう。
大きな音や他人からの接触に過敏で、ときに暴力的な反応をしてしまい世間から疎まれる存在。肉親である父親や母親も手を焼いてしまうこの子は、周囲の目というフィルターをかけると巨大な姿に見えてしまうという表現。すばらしい。
子どもは雨にすら過敏に反応してしまい家に閉じこもっている。いっぽうの父親は新型コロナにかかり、隔離でこれまた家に閉じこもっている。
1つの部屋の中にふたつの閉じこもりがあるユニークさと同時に、この時期、世界中のあらゆる場所で隔離・閉じこもりが発生していたことを思うと、この子は別に変じゃなく、ほら世界中みんな同じでしょ? と言われてるようで面白い。
親子の住む一室をメインに物語は進むが、父親の回想がはじまると時間をさかのぼり、さまざまな時代が語られる。育児、出産、成長……子どもの異変や世間との軋轢、父親の苦悩。
時を超え、場所を移し、まるでジェットコースターのように揺れ動く物語は、最終的にそんなところまで行くのか! というところにまで到達する。父親のとある旅の最終地点、僕はその場面が本当に好きだ。
僕の観た初日は満席。終始笑いにつつまれ、終演後は拍手が鳴り響いた。あたたかい拍手だ。観客という傍観者ではなく、排他的な他者ではなく、この大きな子どもと小さな大人と一緒にいられた、そういう一体感のある拍手だった。
作、演出である柴田智之は、過去の演劇シーズンで『寿』という舞台を公演した。これは高齢者福祉の現場で人間の生と死を見つめたひとり舞台で、深い感動を得たのを覚えている。当時の「ゲキカン!」を「札幌観劇人の語り場」に転載してあるので興味がある方は読んでもらえたらと思う。
柴田は高齢者福祉、障がい者福祉の現場で働き、自ら経験したものを題材にして2つの作品を作った。演劇として描かれにくい、しかしこんなにも大事な世界を多くの人に伝えている。それがいま札幌で観られることのすばらしさをどう書いたらいいのか。とにかく観てください。
役者としては父親と過去パートの母親を演じ、苦悩や怒りをにじませ、ときに爆発的なパワーを発揮する(すごい!)。また、語りを担当する現在パートにおいては、どこか達観したような雰囲気もただよわせていたのが印象的だった。
過去パートの父親を演じたかとうしゅうやは、子どもの障がいや世間、あるいは迫り来る現実に対応できずにいらだちを募らせる。その生々しい苦悩が客の心を舞台上に引き寄せる。僕たちも彼と一緒に悩み、苦しみ、ときに喜ぶ。
祖父や助産婦を演じた横尾寛は急きょ代役で出演となったとは思えない第三の男だった。彼の出番がアクセントとなってリズムや笑いが生み出される。その間、テンポ、たたずまい、恐れ入った。
ある人物を演じた小黒結太(オオタコタロウとのWキャスト)は、舞台を一変させる風を吹かせる。何役なのかは書かないが、彼が出ている間、僕は胸が締めつけられるような思いがした。
初日の日替わりゲストで登場したのは斎藤歩(札幌座)。認定調査員という役で部屋を訪れるのだが、そこでの驚くべき展開に客は笑い、僕も笑い、場内は盛り上がり、劇場は一瞬にして彼のものとなった。
さらに舞台上手で音楽を演奏する烏一匹(ムシニカマル)。客席には音楽に身を揺らし足踏みをする者までいた。まさにライブとしての舞台を完成させた。
終演後、いい舞台を観たなあと思って劇場を出ると、外は2月の寒い夜だった。だけど僕の心はあたたかい。消えない火が灯ってる。あの大きな子どものように。
公演場所:シアターZOO
公演期間:2024年2月10日~2月17日
初出:札幌演劇シーズン2024冬「ゲキカン!」
text by 島崎町