その意味に気づいたとき、ゾッとした 札幌座『ブレーメンの自由』

血も涙もない。

って、常套句がある。「血も涙もない奴だ!」とか、「あいつは血も涙もない演出家だ!」とか(どこの劇団のこと?)。札幌座『ブレーメンの自由』は、まさに血も涙もない話。19世紀初頭に実際にあった連続殺人事件を元にしていて、人がバッタバッタと死んでいく。

さらにこの舞台、ホントに血も涙も出ない。殺害方法は毒殺。被害者はとても苦しむのだけど、血が出ることはない。登場人物たちは泣くことはあっても、涙は流さない。だから、グロテスクで見るに堪えないものを見せられる、というわけじゃないから、安心して観に行って大丈夫。

むしろこの舞台は、まとまりのある優れたものだ。物語はシンプルな展開で、テンポがある。演技も、過剰になりすぎず、抑制がある。何より主役の宮田圭子さんはハマり役だ(喫茶店をやったら繁盛すると思う。毒ぐらい入ってても飲む人がたくさん訪れそう……かな?)。

いい舞台……なのに、観終わったあとに残る、この違和感はなんだろう。なにかとんでもないものを、知らないうちにそっとバッグなのかそれとも心の中なのか、入れられてしまっていたような感覚。

その正体を、ぜひ『ブレーメンの自由』を観て、見つけてほしい。僕は恐らく「液体」に謎を解くカギがあると思う。「コーヒー」は液体だし、あるいは冒頭のキーワード「血も涙もない」……そう、血も涙も液体だ。というわけで、みなさんシアターZOOに観に行ってください、22日までです。で、観終わった方は以下の文章を読んでもらえると幸いです。

……というわけで、僕の違和感は液体、それも体液。この劇、けっこう感情の出るシーンはあるのだけど、血も涙も出ない。汗も出ない。エロス的なシーンもあるのだけど、体液はもちろん出ない。そう考えると、人間って感情が高ぶると体液が出る生き物なんだな。

でもこの舞台ではそれがない。血も涙も出ない。出してしまうとグロテスクになって、きっと観ていられないだろう。あるいは彼女・ゲーシェへの嫌悪感、感情的な拒否につながって、殺人やこの劇自体をやめてほしいと思うかもしれない。

ところが、おぞましい連続殺人事件を「無液体化」すると、殺人が全然、見ていられるようになる(怖いね)。シンプルな物語展開の中で、1人また1人と毒殺されていく。手際もドンドン良くなって。

だから観客は、目の前で行われる殺人に不快な気持ちを抱かずに、むしろ次の殺人を予測し始める。あ、そんなこと言ったらマズいよ、その人の言うこと聞かなかったら……「コーヒーはいかが?」ってほらやっぱり! という風に。

しかも観客は、殺人が、失敗するとは思わない。次から次へテンポ良く殺されていく行程を、じっと観てるだけだ。さらに、ここがこの舞台の白眉だと思うけど、彼女の殺人が、途中で失敗するとは思わせない演出がある。

元の戯曲にあるのだろうか(それとも演出?)、殺人のたびに1つずつ減っていくコーヒーカップだ。その意味に気づいたとき、ゾッとした。おいおい、あといくつ残ってんだよ、って。あのカップがまだ残っている以上、殺人は続く。途中で終わることはあり得ない。劇中の殺人が最後まで続くことを示唆したあのカップは、本当に素晴らしい。

無液体化された舞台で、連続殺人の嫌悪はなくなった。ゲーシェへの嫌悪も生まれない(役者の良さも大いにある)。観客は、彼女が「自由」あるいは「天国」に向かって、サクサクと殺人を行う姿を、嫌悪感なく観てしまうのだ。これを「恐怖」と感じればいいのだろうか。それとも、彼女の「無垢」さを感じればいい?

彼女はたぶんあのあと、死刑になるのだろう。無事(?)に天国に行けたのだろうか? でも、そもそも天国なんて、あるのだろうか? ……なんて言ったら、血も涙もないよね。

 

公演場所:シアターZOO

公演期間:2015年8月15日~8月22日

初出:演劇シーズン2015夏「ゲキカン!」

text by 島崎町

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