札幌の民は不倫を夢見るのか? OrgofA 『Same Time, Next Year-来年の今日もまた-』

著作/バーナード・スレイド 翻訳/青井陽治、堤孝夫

観劇するようになってボクが感じたことの一つに、外国の戯曲を上演する場合「宗教的な部分の多くがカットされてしまう」ということがある。上演時間の短縮を狙っているのかもしれないが、「そこをカットすると作品自体が全く別物になるよね?」ということが多々ある。今作の上演もその例にもれず、事前に戯曲(書籍)を読んでから観劇したボクは非常に残念な思いをした。けれどボクの記憶も確かなものではないので一々「このセリフはカットされた」と断りを入れると間違いが生ずるかもしれない。なので戯曲の感想をメインにして書いてみた。どこがカットされているかは観劇された方々の記憶にゆだねたいと思う。

ちょっと長くなるがOrgofAホームページにある作品紹介における演出/増澤ノゾム氏のメッセージを紹介したい。

「荒唐無稽な恋物語である。でも、これは「不倫話」と言い切ってしまうには語り尽くせない何かがある。夫婦と言えど100%歯車が合うような二人は奇跡と言っていいだろう。その噛み合わないピースを、ある人は自分を変えて、また無視をして、あるいは諦めて共に人生を過ごしていく。中には耐えきれずに別れていく人も。もしその「欠けたピース」を奇跡的に埋める存在が現れたとしたら…! 自分の連れ合いにはないものを持っている、なんて単純な話ではない。きっと生きていくために必要なピースがドリスとジョージの間には明らかにある。年に一度、彼らはそれを確かめ合うように身体を重ね、言葉を交わし合う。これはあり得ない男女の物語であると同時に、もしかしたら誰もが密かに求めている「欠けたピース」へのファンタジーなのかも知れない。」

次に『プラトン全集13』から『法律』の一部を紹介する。

「だが神々は、労苦をになって生まれついた人間の種族を憐れみ、その労苦からの休息になるように、神々への祭礼という気晴らしを定めてくれました。さらに神々は、ムゥサたちとその指導者アポロン、およびディオニゥソスを、祭礼を矯正する目的をかねた同伴者としてあたえられるとともに、その神々と一緒になって行う祭礼において生じる、心の糧をも与えられたのです。」

この戯曲を読んだとき、日々の労苦を癒す年に一度の祝祭のようなものを感じ、プラトンの『法律』、エロスによって恋に狂う(神がかりになる)『パイドロス』、ゼウスにより人間が真っ二つに切られ半身同士が求めあう話があった『饗宴』を連想した。『パイドロス』を連想したのは、情事に及ぶにあたって二人はお酒を飲んでいないからだ。

二人が出会ったレストランには酒がなかった。だからステーキで乾杯の真似事をしたのだ。「酔わずにやったのか?」と思うところだが、ジョージの「何かに取り憑かれてたんだ」から、二人はエロスにより狂って(神がかって)行為に及んだのだろうと納得した。実際プラトン的、ギリシア的なものを連想したのはボクだけでは無く、萩田浩一氏も今作を演出したときにはダンサーを起用し、愛の妖精やキューピッドを思わせるものを演じさせたようである。

・・・にしても、結局は不倫の話しである。それを何故『札幌演劇シーズン』で上演するのか正直ボクには理解できない。今作は不倫の結果不幸になり「やっぱり不倫はいけないなぁ」という物語ではない。「この体が言うことをきく限り」不倫を続けていこうとする物語である。「欠けたピース」を求めてのことであっても不倫はいけない。それなのに高校生以下の観客を想定した料金設定もある。子供たちに「あなたたちの親は不倫をしたいのです。それが人間というものです。」とでも言いたいのだろうか?なんて考えていたら後援には札幌市教育委員会もあって、一人でズッコケてしまった(私的な公演であれば何も言わないけれど)。

とは言え見方によっては面白い作品だと思うので、気が付いたことを述べてみたい。プラトンを連想したと書いたが、それとともにカトリックに批判的なのが気になった。それで「これはルネッサンスだな」と思った。ヴィンデルバントは『西洋近世哲学史』第一巻で次のように述べている。

「アリストテレス的スコラ学からの解放を求める声が、ルネッサンスにはプラトンの熱狂的崇拝という形で、荒々しい熱狂ぶりを以て現われた」

アリストテレスと結びついたカトリックを揺るがすために、ルネッサンスではプラトンの力を利用したのである。カトリックからの解放、女性の解放(男子の解放を主張したのは与謝野晶子)、最後は罪悪感からの解放?と何かと「解放」がちらつく(ディオニソスは解放神)。そしてジョージの息子のマイケル(大天使ミカエル?)はアメリカ的なスーパーマンではなく、ピーター・パンに憧れている(パンの由来はディオニソスに仕える牧神パン)。「これはカトリックとともにアメリカ的価値観に揺さぶりをかけている?」と思った。(小説版には無かったが戯曲の原文にはPeter Panと確かにあった)

「ハーヴァードの教授は、人の息子に、幸福への唯一の道は麻薬漬けの死人になることだと教えやがる。その息子ときたら、髪の毛を伸ばして、後ろ姿はまるでイボンヌ・デ・カルロだ。」なんてジョージのセリフがあるが、イボンヌは『十戒』でモーゼの妻を演じている。このように多様な、というより価値観が揺れ動くアメリカを知っている、というか読んだ事があるとボクは思った。思い出したのは1972年出版の『人間らしさの構造』(渡部昇一)である。

渡部氏はバーナード・スレイドと同じ1930年生まれで、1969~1970年フルブライト教授としてアメリカの4州6大学で講義をされた方である。当時のアメリカを実体験している。そして第一幕第一場のころは上智大学生だったわけだが、若いアメリカ人教師は「アメリカ式の生き方を学ぶことは、学問より価値がある」と言っていたという。つまり第一次・第二次と世界大戦に勝利してきた「アメリカ式生き方」に自信を持っていたのである。当時のアメリカには自分の外側に揺るぎない価値体系があった。1951年のドリスが「カトリックは規則だらけで自分の立場がすぐ分かり便利」と皮肉ったように。けれど1965年のジョージは「二十年、三十年前には、規範というものがあった。しかし今は何を信じていいのか。何もわからん」と嘆くのだ。

渡部氏はアメリカ式の生き方が崩れたのはベトナム戦争の失敗からだという。戦争に勝利してきたアメリカ式生き方が、ベトナム戦争の泥沼化によって崩れたのだ。ドリスとジョージの、自分の外側の価値体系から自分の内側に価値を見出そうとする苦悩。それをアメリカの歴史と重ねて見られるところが今作の面白さだと思う。渡部氏はヒッピーについて次のように述べる。

「私は最初ヒッピーが出たころ感心したものである。いわゆるアメリカ中流社会の価値体系を無視し、「金をもうけることは幸せだ」というすべてのアメリカ人が疑わなかった価値観から抜け出したことは偉いものだと思った。それは出家した釈迦に似通ったところがあるからである。」

1951年のドリスは自分の暮らしに「うんざり」していた。1965年にアイデンティティをみつけるために大学にいってヒッピーにはまったのは、主婦業はお金にならないとの女性蔑視からだったのだと思う。けれどドリスのヒッピーは上辺だけの外側の価値観だったから、1970年にはお金と権力を求めて事業に携わっていたのだろう。そして事業は成功しても幸せになれないドリスの姿にボクの胸は痛んだ。最後の1975年、アイデンティティをみつけたいと藻掻き続けたドリスの「私、イタリア系よ。絶対に泣かないわ。」とのセリフ。1951年に戻ったかのようにシンプルだが、とてつもなく重い。

「精神分析で人の心を癒す、という方法は一時アメリカでは万能のように見えた。そしてそれまでは神父や牧師の仕事であった救霊の仕事が、あらかた心理学者の手に移った感じさえ生じてきたのである」

もう一つ。『人間らしさの構造』の記述にあるように、ジョージも精神分析を学んでいた。ドリスからは「飛び降り自殺をやめさせようと説得してる人みたい」と言われるほどに。そんなジョージであるが、ドリスと夫のハリーを破局の危機から救うためには神父の権威が必要だったのだ。まぁ神父を名乗る以外に方法は無いのだが、この話の持って行き方は非常に上手いと思った。序盤、聖母マリアの処女懐胎を揶揄するようなところもあったが、カトリックに対する配慮が絶妙である。

そしてクライマックス。ドリスにプロポーズを断られたジョージは帰るために外に出るが、しばらくすると「出発は中止だ。畜生め!」と戻ってくる。

原文では“ Okay, I’m back goddamit! ”とある。「goddamn it」で「畜生め!」は普通の訳だと思うが、「damn」について調べてみると「日刊英語ライフ」というウェブマガジンで『“God damn it!” の意味とは?』という記事があり、

「”damn” 簡単に言うと、(神が)誰かを地獄に送ってそこで永遠に苦しめる、といった意味ですね。」

とある。このセリフをそのまま受け取っていいのか?それとも英語圏、キリスト教徒の方々には特別深い意味があるのか?文脈的に地獄行きを示唆するものなのか?その解釈もアリなら子供にも配慮した札幌演劇シーズンならではの演出として、ドリスに「結婚は地獄で・・・ねっ!」なんてウインクをさせても良かったのでは?と思う。セリフを変えるのがルール違反なら地獄の業火を思わせる照明を当てるとか・・・。

さんざん好き勝手なことを書いてきたが、最後に『西洋哲学史』(今道友信BARBEE BOYS・イマサのお父さん)にある文章を紹介して終わりにしたい。

「その人しかわからない相手のよさ、そのよさを発見するということ、これはエロースの力のせいです。」                                                                                         「エロースによって高められた心でみたときに、ふだんはみえない相手のよさがわかってくることがある。」

ちなみにピーター・パンのピーターという名は、一般的に初代ローマ教皇である聖ペトロからいただいてつけるものらしい。「半獣神パンに聖ペトロのピーターを付けて「肉のわざ」の暴走に「愛のわざ」のブレーキをかけていたのだ」(『ミルワード神父のシェイクスピア物語』)。ピーター・パンに憧れたマイケルが子供の頃は電車やバスで勃起し(パンは性豪)、戦場で負傷者を助ける「愛のわざ」の最中に戦死したのは二人の関係が終わらない(ブレーキを失った)ことを暗示する出来事だったのかもしれない。今作を観劇した若者が、良き伴侶と巡り合うことを祈る。

 

※バーナード・スレイド原作の今作は、邦題『ドリスとジョージ』(翻訳・安西徹雄)で1981年上演された。安西氏の著書『彼方からの声』には全国巡演とある。そこで1984年刊行の北海道年鑑で確認すると、劇場名は書いていないものの北海道でも1983年に上演されたようだ(札幌えんかんの観劇リストにもあった)。だからセイムタイムネクストイヤーというより「小川真由美・橋爪功も演じたドリスとジョージ」と宣伝したらピンとくる方々がいたかもしれない(金田一仁志氏のドリスとジョージもありますね)。変わらず連れ添った二人に「40年ぶりにドリスとジョージを観に行く?」なんて会話があったとしたら、それはとてもドラマチックである。そしてその時、誘われた方は昔を懐かしむのか、それとも内心冷や汗をかくのか?ひょっとしたらパニック(語源はパンの恐怖)になるかもしれない!コメディーにもサスペンスになりえる、そんな展開を想像するボクは罪深いのだろうか?

 

2024年2月4日(日)19:00

ターミナルプラザことにパトスにて観劇

text by S・T

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