Che meraviglioso! これは演劇の発明だ! マームとジプシー『ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと』

何もかもが桁外れ。久々に脳天に一撃を喰らいました。これは新しい「演劇の発明」といっていいでしょう。伊達市出身、弱冠32才。ポスト野田秀樹と言われて久しいですが、チェルフィッチュの岡田利規を超える逸材かもしれません。主宰・作・演出の藤田貴大のカンパニー、マームとジプシー結成10周年ツアー。札幌国際芸術祭2017特別協力プログラム。故郷で公演したことはあるそうですが、なんと札幌初上演。大友良英ディレクターと北海道文化財団に感謝です。

『ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと』は、思いっきり簡単にレジュメすると、海辺にある小さな地方都市。父が亡くなって一人故郷に残った長男の家(つまり実家です)に、故郷を離れた、姉妹と娘たちが一周忌のために再び集う話。「家族・家」というのがモチーフだと思います。これまでの9作品を再編集(この再編集という作業をすること自体がすごいですが)して3本の作品にまとめ、2012年と2016年に上映した作品の再演だそうです。この時は、藤田の故郷である伊達で公演は行われましたが、札幌まで来ることはありませんでした。藤田はあるインタビュー取材に、「ずっとコンプレックスがあった」と語っています。

見せる角度を変えて執拗に繰り返される言葉(台詞というよりも言葉といったほうが良いように思います)のリフレインがとても特徴的です。言葉だけではなく、シーンのリフレインや時間軸を遡及してのリフレインもあり、このような演出は僕は初めて観ました。リフレインするごとに、役者から発せられる言葉の広がりが微妙に変化し、回転する舞台や役者自身も回転することで、言葉の持つ強さがより伝わり、物語が観客の想像力とともに立体的に立ち現れます。演劇では、言葉は役者から発せられるものですが、通常1カ月程度の稽古で、役者はいやというほど同じ言葉を発することになります。でも、そこには同じものは一つとしてなく、劇の練度だけではなく、役者自身の役を通しての変化や、演出家自身の意味づけの発見とが重層的に重なっていくものです。で、どこかで演出家は仕上がりをジャッジをして、観客に提示するものとしてオッケーを出して、初日を迎えます。しかし、役者は公演中もまた同じ言葉を発し、ダメ出しを受け、言葉の伝播力や物語の行方は日々変化していきます。演出家も時として、自分が書いた本なのに、「そういうことだったのか」と気づきがあって芝居のつけ方(演出)が変わることも珍しくありません。演劇の醍醐味、再現性のないライヴ性はまさにここにあるのですが、観客側から観ると、普通は1回しか観劇しませんよね(もちろん、気に入って何度も小屋に足繁く通う人たちはいるのですが、全公演コンプって聞いたことがないですし、経済的にも合理性がありません)。ほとんどの人たちは、台詞が持つ言葉の広がりを一期一会で経験するだけです。「それってもったいなくないですか」と言わんばかりの仕掛けとすれば、僕は藤田の演出スタイルは、新しい「演劇を発明」したに等しいと感じました。

役者の身体性の表現も実にユニークです。というか、誤解を恐れずに言えば、藤田はもしかしたら舞台上の小道具を役者と同じように扱っているのではないでしょうか。テーブルを動かす、電話ボックスの位置を変える、などモノの配置は役者の動きが物語世界を形作る要素として同等に扱われているように感じます。僕たちが普通に芝居で目にするいわゆる、美術セットはありませんし、書割のようなものもありません。計算されつくされた場所にモノが配置されていて、その空間自体が静謐で美しい美術セットになっていますし、役者自身によって組み立てられるモノも、場所Aから場所Bにどのように移動させるのかも、物語の一部のようです。マームとジプシー結成時からの女優、青柳いずみ(チェルフィッチュでもおなじみ)は出演していませんでしたが、優れた俳優陣の中でも一際、一家の長女役の成田亜佑美は人物の心象を繊細に演じ分けとても印象に残りました。

役者の身体性に余計な意味づけをしないせいでしょうか、多くのアーティストたちに衣装を提供し、自身のブランドも持っているスズキタカユキによる衣装が秀逸です。音楽(石橋英子)も音響(田鹿充)も劇伴として見事に鳴っています。物語に必要以上のクレッシェンドをつけず、心の奥深くを触られているような感じがあります。聞こえていないようで聞こえている。聞こえているようで聞こえない。こういう音楽、音響も久々に聴くものでした。照明(南香織)も、最小限の灯体でプランを立てているようで、目見当のケルビン感でほぼ地明かりじゃないのかと思うシーンもあって思わずバトンを見上げたりもしました。人物の心情を見事に描き出してみせる暗部の諧調や、ここぞというところのハイライトの使い方がとても美しく感じました。映像(召田実子)も、これぞ演劇との融合と得心する素晴らしさ。

藤田の内面から湧き上がるような叙情的ともいえる極めて文体のあるテキストがなんともいえない独特の世界観をつくっていますし、痛みや喪失を内包している僕たちの現実社会の在り様とつなげる物語力は驚嘆の一言に尽きます。自分の言葉で大きなモチーフにたどり着こうとしているというべきでしょうか。演劇って、わかりやすさ(大衆性)と難解さ(アート)とか、ある種二者択一のようなところがあると思っていましたが、藤田はどちらも成立させようと試み、それは成功していたと思うのです。

藤田は多作な作家として知られているそうです。言葉で伝えたいものが魂から次から次にあふれてくるのでしょうね。札幌が、このクラスのお芝居を、次代の演劇のクリエーターの一人として今一番注目されるマームとジプシーを、せめて全国ツアー時に普通に観られる演劇都市になってくれるといいのになぁと思います。「演劇って今ここまできているんだ」と心を深く、強く揺さぶられる舞台でした。

 

8/19(土)札幌市教育文化会館

※8/20(日)『クラゲノココロ モモノパノラマ ヒダリメノヒダ』も、作家の原風景のようなものを感じて素晴らしかったです。

 

 

 

 

 

text by しのぴー

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