森は誰にとっての聖地? イレブンナイン ミャゴラ『やんなるくらい自己嫌悪』

※箇条書きの感想にて失礼します
 
 
○若手が一生懸命に演じている作品だった。

○白ヤギさんの歌からのスタートはムードがあって良かった。

○自殺を止めるコールガールの出現あたりから、セリフが頭に入ってきた。呼吸感の問題だろうか、それ以前は、セリフが相手役から届く前に自分のセリフを言い始めているかのような。

○修二役の演技を観て、演出の明逸人の演技をうっすらと想像。『あっちこっち佐藤さん』でのヒロシなどとの共通性を感じた。

○質屋やアシスタントなどの衣装が素敵。

○質屋の演技はさすがの安定感。

○場転はちょっとざっくりしてるなぁ、と感じた。

○「死にゆく者たちの聖地」と森を定義していたが、生ある人間はみな死にゆく者。つまり人間の聖地ってこと? そこまでの場所とは思えないが…。
脚本の中で森は、いろいろな事情を抱えた者たちが、それでも(さほど咎め立てされずに)受け入れられて生きていける場所、として描こうとしているように思える。であれば「死にたい者たちの聖地」が正解だろうか。

そしてまた、「生き地獄を味わって、ギリギリのところで踏ん張って生きている」というようなセリフがあったが、森はそのような場所として描かれているだろうか? 生き地獄というほどでもない事情の人もいるなぁ、と思うのだが、当事者にとっては生き地獄なのか。

本来「踏ん張る」は、現実から逃げずに向き合うことだ。ここでは「ダメな自分を認めて肯定する」「死にたいけどとりあえず生きていく」を「踏ん張る」のギリギリとして描いているのだろう。そうでもない役も登場してるけれど。うーん、それぞれの役に与えられている死にたさの事情・感情を受け取れず、よってギリギリの踏ん張る感も受け取れなかった。逃げ迷ってファンタジックなところでなんとなく解決したり場を与えられたりして生きていく、それもまた人生の真理ではあるだろうけども。傷つきやすい現代人へのエールとして作られた、ぬるくもやさしい物語、ということだろうか。
 
 
2017年11月10日 19時30分 サンピアザ劇場にて観劇

text by 瞑想子

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