「血」と家族:イレブンナイン『サクラダファミリー』

ネタバレあり。これから観る人は注意(^^)。

「血縁」とは何とも生温かく安易でありながら、面倒くさい関係である。家族との亀裂は友人や社会との亀裂より、深く傷つくのではないか。それは自分自身を傷つけたかのように。血がつながっているがゆえに、本音を口に出すこと、許せないこと、腹立たしいこともあれば、喧嘩しても、いつか許しあい、理解しあえるのでは、という期待がどこかにあるような関係。それは、「血」がもたらす関係なのか?いや・・

序盤から、ドタバタコメディ風の笑いあり、意味深な会話の断片あり、桜田ファミリーの全容解明にぐいぐい引き込まれてゆく。次男ナツオ(江田由紀浩氏)が、父親イワオ(納谷真大氏)に自分の母の苦労や辛かった子供時代の恨みをぶつけるところで、うんうん、とすでに涙しているところへ、やがてくるドラマチックな告白と真相。ええ~!そうなの?と、衝撃を楽しむ。すでにシーズン前の初演を観て真相を知っている人は、この快感はないけどね。

腹違いの兄弟姉妹たちが、「嫌いだけど血がつながった父親だから」といやいや付き合ってきた、桜田ファミリーの要となる父親。女をとっかえひっかえ女房にしてきた父親。あんな男の血が自分にも流れていることを呪ってきた父親。ぶっきらぼうで頑固なクソ親父。そんな存在に、ごめん、血はつながってないよ、だからファミリー解散!と言われたら?互いに共有していると思っていた同じ父親の「血」が、ないと分かった時、人は戸籍上の兄弟姉妹とどう向き合うか?

相手を思う気持ちは、ともに過ごした時間から生まれるのだ。とは「星の王子さま」で王子がキツネに教わる言葉から。

アイデンティティが比較的「個人」として確立している欧米では、家族や会社をアイデンティティのよりどころとしがちな日本ほど、家族というものにセンチメンタルではないかもしれない。「私はジョンです」とまず自分の名を名乗る欧米の習慣と、「xx商事の○○です」「○○小学校3年1組のXXです」と所属をまずつける日本の習慣から読み解いたものだが、結構家族関係にも反映されているように思う。欧米では個人が確立しているがゆえに、頻繁に「愛してるよ」「ありがとう」と伝える必要もある。血が繋がっているから愛する、血が繋がっているから言わずとも分かってくれる、という甘えはあまりない。

いずれにしても桜田ファミリー一同は、自己のアイデンティティの再認識を迫られる。劇中のセリフにも(変形されて)あった、「ここはどこ?私はだれ?」というわけだ。血縁とともに失われるもの、残るもの、そして新たに生まれるものは何か。表現しがたいその感情に、人間の真実がある。

納谷氏演じる父親は、末娘が社会人となるのを待って、ファミリー解散を宣言する。シングルマザーとなる女たちをその都度妻にして、自分の子ではない子供たちを引き取って育ててきた。イスラムの、「平等な生活を与えられるなら4人まで妻をもつことを許す」、という教えを日本で合法的に実践するとこうなる(?)。「解散」の意味するものは、自分の老後を誰もみなくていい、という、介護負担からの「開放」である。育ててやった恩を楯に、老後の面倒をみてくれ、といっても当然であろうのに。その潔さに、最後には、この小汚い股引じいちゃんが、気高く見える。

キャラクターたちそれぞれの設定がユニークで、大勢登場するが分かりやすい。まとめて褒めて申し訳ないが、俳優陣はいずれも安定した好演。全員すごい声を張り上げている感があったので、終演後、納谷氏に聞いてみると、あの出し方が喉には楽でやりやすいのだとか。

本公演の稽古中にご尊父が他界された納谷氏に、お悔やみを申し上げるとともに、「勘当」を「感動」にトランスフォームした納谷ご家族に敬意を表したい。

目標の2000名以上の集客を見事に達成。おめでとう。これにも敬意。

 

2018年1月25日 19:30 コンカリーニョにて観劇。

text by やすみん

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