そうとうな野心作 きまぐれポニーテール『アピカのお城』

物語を作るとき、時代から逃れられないと思う。

過去や未来、どんな時代を描こうと、作者の生きてる(書いてる)時代の影響を受ける。時代性を意識して書く人もいれば、無意識に書いてる人もいる。仮に、意図的に時代性を排除しようとしても、どこかに必ず現れる。逃れられない。

そういった意味で物語とは時代を描くことだともいえる。いま生きてるこの時間、この世界――それはまったく膨大な情報量だ――から枝葉をどんどん削ぎ落とし、シンプルにすることによって、伝えたいものを浮き彫りにする。

まるで、石のかたまりをどう削るか、削る人によって「ダビデ」になったり「考える人」になったり「お地蔵さん」になったりするかのように。

物語は時代を削って作品にしたもの。シンプルに物語化された「時代」を、僕たち観客は観たり読んだりしてなにかを感じる。感じるだけじゃく、つぎの自分の原動力になったりもする。そこに物語が存在する理由のひとつがあると思う(あくまでも、ひとつだ)。

リアル社会、リアル現実が抱えている問題や、リアル自分が抱えている問題を、シンプルな、物語化されたものとして観る。そういう風に物語化されたから、観られるようになる、ともいえる。直視するにはしんどかったり、観たくもないものもあるし。

物語化されると僕たちは(物語内で描かれる)問題や現実を観られるようになる。そうしてストーリーやキャラクターを楽しみ、いつしかその行く末に注目するようになる。最後はいったいどうなるんだろうと。

大半の人はそこで、よい結果を望む。がんばって幸せになってほしいと。たとえ不幸な結末になったとしても、登場人物の行動を見つめつづける。そして、努力を知る。

物語を通じて観客は、立ち向かい成功したものを観る。あるいは、失敗してもなにか行動したものの姿を。観る、というよりは疑似体験だ。あたかも、行動したのは、努力したのは自分であるかのように。

これはすごく大事なことで、だから物語を観終えたあと、僕たちは少し強くなっている。現実に立ち向かう力をもらってる。

つまり現実をシンプル化して物語にする、それを体験することによって現実を生きる力を得る。「現実→物語→現実」だ。

長々とつまらない物語論を書いてしまったので、ここまで読んでる人はかなり少ないと思うけど、実はこの構図「現実→物語→現実」を『アピカのお城』は物語内で(!)おこなっているのだ。

『アピカのお城』は、ノートに書かれたおとぎ話を読むシーンからはじまる。登場人物をお姫様、ネズミなど寓話上のキャラに置き換えて、楽しいシーンだ。そのあと現実パートの本編がはじまる。

しかしそれは単なる面白い導入部分というだけでない。本編が進むにつれ現実をおとぎ話化(物語化)してノートに書いたのはだれなのかがわかってくる。

そして最後に、受け入れづらい現実を物語化したことによって少しだけ強くなって現実に立ち向かう力をもらった人物がいたとしたら……。

つまり「現実→物語→現実」の構図だ。そしてそれをさらに観ている観客が、少しだけ強くなって、現実に立ち向かう力をもらって……

という構図だから、ひとすじなわじゃない。本作はいっけん楽しい女子コメディーの体裁をとっていながら、実は深い物語構造で観客を未知の領域にいざなう、そうとう刺激的な舞台作品なのだ。

たとえばあのシェアハウス「パレス・ド・アピカ(アピカのお城)」とはなんなのか。それだけとっても、また文字数が必要になるからもうやめるけど、彼女たちがお城から出ていくのはなぜなのか、どうしてそのタイミングなのか、それにはもちろん理由があるし、最初に出ていった人物の意外な真実を考えるとじゅうぶん納得がいくものかもしれないし……

ほかにも、顔入れ換え(文字にするとすごいな)や謎のちりばめ、完全に明かしきらない真相などあげたらキリがない。これ、そうとうな野心作だ、めまいがいする。

現実を物語化して現実に還る、という物語を観終えて現実に還った僕たちは、『アピカのお城』というお城(またの名をBLOCH)から出ていく。

つづきは、これから。

 

公演場所:BLOCH

公演期間:2018年8月11日~8月18日

初出:札幌演劇シーズン2018夏「ゲキカン!」

 

text by 島崎町

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