高校生版『ゴドー』なのか? 帯広北高校演劇部『放課後談話』

数十年前、僕は高校生の男子だった。彼らとおなじようにダラけていて、彼らとおなじように時間を浪費していた。

いつ終わるともしれないドロドロとした時間は無限と言ってもよく、どうやって時間をつぶしていくか、ひたすらそれだけを考えていた。

高校のあとにも人生の時間はあるのだろうけど、それははるかかなた、地平線の向こうにあって、存在は知っているけど、いつかは来るんだろうけど、想像もできない世界だった。

そんな、いつか終わる永遠を僕は生きていた。帯広北高校演劇部の舞台『放課後談話』の男子ふたりも。

とある高校の放課後、廊下かひらけたスペースか、ベンチに座る男子ふたり。ひとりは演劇部の部長(多田隼脩)。部員は自分と美術担当の女子だけ。なのでおなじくベンチに座っている長﨑(長﨑凌馬)を誘う。長﨑は弓道部だったがケガで競技をつづけられないでいた。

そんなふたりの45分間。ひたすらセリフだけでつないでいく。こう書くと、おなじく高校男子ふたりが無意味とも思える無駄話をつづけていくマンガ『セトウツミ』や昨年末に札幌でも上演された『ゴドーを待ちながら』を思い浮かべる人も多いと思う。

もちろん褒め言葉として高校生版の『ゴドーを待ちながら』という形容もできるだろう。だけど僕は『ゴドー』よりもかなり明確な目的と希望をこの舞台から感じた(『ゴドー』にも希望はあるが)。

部長である多田は長﨑を演劇部に誘いつづける。けだるそうに座り、なんとなく誘っているように見えるが意思は明確だ。いっぽうの長﨑は、弓道をつづけられない喪失感をかかえながら誘いを断りつづける。早い段階で提示されるこの構図はすでにラストの収束と調和を保証している。つまり、おさまるところがあって、そこにむかって進んでいるのだ。劇も、ふたりも。

そういった意味でこの劇は、無限を生きるあいまいな時間に取り残された高校生ふたりの物語というよりは、しっかりスジのある、わかりやすさすらある物語と言えるはずだ。だからこそ第68回 全道高等学校演劇発表大会で最優秀賞を受賞したんだろう。

ではなんで僕たちはこの舞台を観て、あいまいで建設的じゃない、延々と循環していくような不条理を感じるんだろう。

たぶんそれは長﨑のモノローグ(語り)にあるのかもしれない。奇妙なことに冒頭と途中に彼の心の声が流れる。彼が目の前のできごとを監察し、批判し、理解しようとする内面だ。

もしかしたらそれは、彼の成長やつぎへのステップを表しているものかもしれないけど、僕には時間を浪費するための遊戯に見えた。無限とも言える時間をどうやってやり過ごしていくのか、彼なりの適応だ。

長﨑の思考はなにを生み出すだろう。実のところむなしい浪費でしかない。実際、この劇のラスト、長﨑の決断は、グルグルとした思考の循環から生まれたものではなく、多田とのストレートなセリフのやりとりから発生したものだ。

しかし、無限とも思える時間の中で、生産性のない循環を繰り返すことで、舞台の上に不条理が立ちあがり、フワフワとした「いつか終わる永遠」感が生まれた。この劇はそこがよかった。

演じた長﨑凌馬のボソボソとしたしゃべりは、意図したものではないかもしれないがなにか力を失ってしまったような感じが出ていた。いっぽう部長を演じた多田隼脩は、ダルさたっぷりに座り、しゃべり、それでいて部への思いもあり一本気さがにじみ出ていた。

『放課後談話』は、この劇をつくった帯広北高校演劇部の人員構成とかぶっている。部長の男子ともうひとりは美術部の女子、そして勧誘される第3の部員。

劇中、セリフだけで言及された女子部員。クレジットには「舞台美術監修・音響 沼口瑚紅」とある。おそらくこの劇を観たすべての人の心に残る、あの舞台背景を描いたのは彼女だろう。黒くシルエットになった人影が幾人も、浮遊するように存在している絵だ。多田や長﨑の前を通りすぎる人たちの象徴なのだろうか、それとも、全国どこの高校にもいる多田や長﨑たちの姿なのだろうか。

あるいは、かつて男子高校生や女子高校生だったすべての人を表しているのか。僕たちはこの劇を観て、果てしなく時間を浪費しつづける登場人物に、かつての自分たちを投影した。その自己が、ほら、そこに映ってるよ、と言われたような気持ちになった。不思議な絵だった。

 

公演場所:かでる2・7

公演期間:2019年1月11日

初出:札幌演劇シーズン2019冬「ゲキカン!」

text by 島崎町

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