タイトルの「犬」について考える 劇団怪獣無法地帯『へるん先生ん家の犬』

作・演出 伊藤樹

亡くなった祖父の家を処分する前に親族が集まり蔵書等を片付けていく、伊藤樹自伝的物語。主人公の孫娘にだけ祖父のゴーストが見える。

へるん先生、つまり小泉八雲のことであるが、今作で犬(棚田満)の登場は物語の中盤わずかなものであった。それで何故タイトルに犬を?と思われた方もいると思うが、ボクはそれで良かったと思う。へるん先生ん家の犬と、主人公(新井田琴江)がボクには重なって見えたからだ(劇中断りがあったように本来へるん先生ん家の犬は「彼女」である)。ポイントは祖先崇拝につながる「祖父を敬う心」と、犬が「人間が見えないものを知覚できる」ことだろう。そう考えたのは八雲の『日本』と『霊の日本』の「犬の遠ぼえ」をボクは読んでいたからである。

『日本』もしくは『神国日本』で八雲が書いていることを一言でいえば「日本は祖先崇拝の国」ということだった。神国の神とは「上位に立つもの」で、つまり先祖を大切にする国ということだ。その代表的なものが皇室で、それがキリスト教のように神を信仰するものとは全く違うことが良く分かった。先祖を、たとえば祖父を「信仰する」とは言わないからだ。(面白いのは皇室を祖先崇拝とした八雲が贈従四位を叙せられたこと。1915年の事だが『神国日本』が正しく多くの人々に読まれていたら、天皇がファナティックに担がれることも無かったと思え残念である。)

八雲を題材にして、不仲で祖父を大切にしない家族を描いたら、ちぐはぐであろう。とてもセツの『思い出の記』をもとに八雲の最期と祖父の最期を重ねた場面を作ることはできない。劇団代表の棚田満が八雲になり祖父になり、セツ(のしろゆうこ)と妻(高野吟子)の間で演じ分けていく姿は感動的であった。八雲であり祖父である棚田があの世に旅立つとき、舞台袖から新井田が帽子を被り、ジャケットを羽織り、ボストンバッグを持ち、大きめの革靴を履いて出てくる。そしてそれらを棚田に渡していく。その出で立ちは八雲が米国から来日した姿に似ている。「また違う世界に行くだけ」とでも言っているかのようだ。そして棚田と新井田の姿はパンフレットにあった八雲と犬の姿に重なってボクには見えた。

「痩せこけた犬で、見だても悪く、耳も立ち耳だし、目つきもなんとなくいやな目つきをしている」これが八雲による番犬である彼女の描写である。パンフレットの可愛い絵とは似ても似つかない。だいいちパンフレットの犬は垂れ耳である。

八雲は犬を観察し、人間の目に見えないものを犬には見る力があるという証拠はないが、嗅覚は間違いなく人間より優れていると語る。そして遠ぼえの意味は怪しい物が「見えるぞ!」ではなく「におうぞ!」だと推測している。世の中には「書香の家」という言葉もあるので、きっと主人公(蔵書を守る番犬的な?)は本の匂いが好きだとボクは推測する。祖父の匂いも好きだったとボクは推測する。けれど劇中匂いに関する描写は無かったはず・・・、なのでかなり強引なタイトルの解釈になりますね、きっと。

ただ、もっと深読みをすれば、タイトルにはまだ意味があると思える。本棚にあった立花隆氏の著書『臨死体験』にふれ、内容を簡単に説明したことだ。読んだことはないが記憶では立花氏は臨死体験には懐疑的だったはずだからボクは驚いた。今作に合わないんじゃないかと。調べてみるとNHKスペシャルの『臨死体験 死ぬとき心はどうなるのか』では臨死体験を「死の直前に衰弱した脳が見せる「夢」に近い現象であることを科学的に明らかにした」としているし、死後の世界についても信じてはいないようである。なぜ立花隆氏を出して観客を揺さぶる必要があったのか?これまたボクの強引な解釈だが、「犬」を見せなくても劇中にその存在を感じさせる工夫だったのだと思う。立花氏のファンには怒られると思うが「犬の遠ぼえ」の最後を紹介して考察を終えたい。あくまでボクの解釈ですのでお間違いなく。

「この悟りがひらけないうちは、人間はじっさいに夢見る者なのだ。闇夜に救うものなく、うめきもだえ、物の怪の恐ろしさに苦しめられる夢中の人なのである。人間はひとりのこらず、みな夢を見ているのだ。心から醒めているものは、ひとりもいない。世の中の賢い者として世渡る者の多くは、闇夜に遠ぼえをするわが家の白犬にくらべたら、真理を知ること、まさに犬にも劣るものだ。」

 

2023年7/27(木)19:30・7/30(日)14:00

ターミナルプラザことにパトスにて観劇

 

追記                                                         八雲には東京帝国大学での教え子に、英文学者になった厨川白村がいる。その白村が『小泉先生』という1918年のエッセイで「日本の一般社会が余りに先生を知らな過ぎる」としている。そうなんだーと思ったが、考えてみれば八雲の作品は英語で書かれ外国で出版されていたわけで、それが翻訳され、日本で出版されるには時間がかかって当然。日本語で八雲を読めるようになったのは20年代のようだ。                                                      その東京帝国大学での講義は現在『小泉八雲 東大講義録』(角川ソフィア文庫)で読むことができる。講義を受けた学生たちのノートをもとに纏められたものだ。その49ページに西洋諸国の多くの国民をさして「彼らは、日本が日清、日露戦で善戦し、鉄道を保有していることは知っている。」との文章があった。あれっ?と思った。八雲が東大で教えていたのは1896~1903年で日露戦争は1904~1905年である。原文を確認してみると、They know that Japan can fight well, and she has railroads, and ships of war とある。日露戦争を見越しての発言であろうが鉄道は訳しても軍艦を無視したのは何故か?誤訳というより何らかの意図があるとしか思えない。ロシアに対し善戦できると考える八雲を受け入れられなかったのか?来るべき海戦を思い、東郷平八郎の写真にキスをして戦勝を祈った八雲を受け入れられなかったのか?翻訳した池田雅之氏に尋ねるのもなんですので、その辺の事情をご存じの方がいらっしゃいましたら是非教えてください。よろしくお願いいたします。

 

text by S・T

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。