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キリギリスの夜:弦巻楽団『歌は自由を目指す』

本作品は、ある家族を描くホームドラマではあるが、イソップの「アリとキリギリス」の「政治的に正しい」版を思い出した。キリギリスは、オーストラリアのリゾートでテニスコーチをしたりサーフィンしたり、人生を楽しんでいる。アリはせっせと働いて胃潰瘍になりながら貯蓄に励んでいる。やがて、冷徹なカマキリの税務署員が「アリですね」とやって来て、査察に入り、アリは追徴金でごっそりと財産を国に奪われる、というようなストーリーだった。

本作は、放浪ミュージシャンの長男ヤマトと実家の漬物屋を継ぐ次男カクマの、相反する青春の生き方から、「自由」ってなんだ?と問いかける。しかし忘れてはならないのは、妹ツクシの存在だ。二人の兄の中道を行くかのように、地道に人生を歩み家族の基盤となって兄たちを繋ぐ。キリギリスだってアリだって泣きたい夜はある。

俳優陣は、一生懸命さがよく伝わる好演だった。複数の役を即時に演じ分けて、場面展開を早め、飽きさせない。特に男優陣は、重要な役ばかりだがよく頑張っていた。騙されて漬物屋を畳むしかないとなったカクマの深浦佑太氏の演技には、ホロリときた。弦巻氏らしい笑いを交えながら、いいドラマ展開だと思う。最後は、ナンチャラ語で書かれたものをもとに新しい漬物を作るのかと思ったので、カクマが兄を真似て旅に出るのは残念な気もする。しかし、「君の人生は君が決めるのだ」というメッセージと「家族の絆」は、笑いの中にしっかり伝わったのではないか。

筆者も家族の中では若い頃は「気楽トンボ」と言われて、定職につかず海外生活していた。父親の危篤の知らせもイギリスで聞いた。死に目には会えなかった。家族に甘えてきた罰だと思った。

死後、鮮明な夢に現れた父は、ちょっと愚痴った後、「淋しいときはいつでもそばにいるからな」と言った。留学中やせ我慢で泣きながら寝た夜を知られたのだと思った。

2018年6月16日 14:00 シアターZOOにて観劇。

性善説の解釈? 弦巻楽団 舞台に立つ『ハムレット』

演劇研究講座の発表としては、大変よくできている舞台だった。
…ということを先にお伝えしつつ、以下は講座発表ということへの忖度が少なめな、普通の観客目線の感想となる。箇条書きにて失礼。
 
 
●「舞台に立つ」の観劇は『コリオレイナス』『リチャード三世』に続き3作目。これまで同様の一本調子の早回し…と思わせた立ち上がりだったが、今回は緩急(というよりは強弱?)があった。経験と技量のある役者にはそのような演出が付いている模様。部分的に代役が出ているような微妙なちぐはぐ感はあったが、声量も滑舌もほぼ問題なく、台詞はきちんと客席まで届いていた。しかし、聞こえていても受け取れずに滑っていく部分もあった。

●クローディアス(田村嘉規)とガートルード(内匠勇太)の造形に、演出家(弦巻啓太)の性善説的な作品解釈がうっすらと見える気が。
 王は社内政治を切り抜けてトップに立った、それなりに頭の良い企業経営者風。はかりごとも一国の主なら当然の範囲という落ち着きぶり。王妃は体面的で主体性はないが、それなりに息子を愛する母のよう。両名には後ろ暗さがほとんど見られず、本人としては正義を行っている感覚を持ってやむなく兄王を弑し(夫を裏切り)、甥を消そうとしているように見える。であるなら、ハムレットとの対立軸から演出家は何を見せようとしているのか? というところまでは、残念ながら受け取れなかった。

●本公演でメインキャストを務めてきた役者が参加し、作品世界を支えている。というよりも戯曲のタイプを考えたら、もうこれは村上義典のハムレットへの挑戦や遠藤洋平のポローニアスを観る芝居と言っていいような。

●ハムレット(村上義典)は理知的で繊細(神経質)な造形。『シャーロック』のホームズとか、『容疑者Xの献身』(ガリレオ)の湯川准教授を連想した。(白くないけど)白衣のせいか。
序盤から中盤にかけてのモノローグ部分では、言葉にイメージを持って語っていないような平板さを感じた。が、後半に入って物語が動くにつれて解消された。オフィーリアと絡む部分の演技などは堂に入ったもの。
『ハムレット』で主役を演ずる機会などそうはなかろう。一期にかける気合いを感じるような演技に満足。

●ポローニアス(遠藤洋平)は、作品中で最もキャラが立っていてわかりやすく、物語の推進役となっていた。遠藤はよく動く軽みのあるキャラが得手と感じていたが、終始身を低く構えていることで役柄なりの重さを加えていた。あの姿勢をキープするのは大変だっただろう。熱弁のシーンで手の動きが同じパターンになりがちなのはちょっと気になった。

●フォーティンブラス(深浦佑太)は、出場が少なくもったいない配役のような気がしたが、納得感のあるラストに必要だった。わかりにくくなりがちなフォーティンブラスの立ち位置が明快。押し出しも十分。

●クローディアスは声の重みと響きが「王」にピッタリ。ガートルードを男性が演じるとは驚いたが、雰囲気も、全体のバランスとしても適役だった。ちゃんと品のある女性に見えた。

●墓掘りは場面も歌も素敵だったが、掘り出された頭蓋骨が驚きの白さだった。臭わなさそう(笑)。むしろ茶色いボロ雑巾の塊でお願いしたい。

●役割解釈を現代に対照させての記号的な衣装設定が面白かった。上の命令に諾々と従う下っ端にビジネススーツとか。演劇は「見立て」、連想の楽しさがあった。

●正直に書くと、演出で補いきれていない不快なカ所もあった。講座発表としてはやむを得ない成り行きであり、演出家も承知していることではあるだろう。むしろそこが不快なのは他の出来がいいからでもある。講座の実施と継続、シェイクスピアへの真摯なチャレンジ、いずれも好感が持てる。応援したい取り組み・発表。

●観たのは前楽で、錬られていながらダレておらず弾けてもいない、いい上演回だったと感じた。
 
 
4月1日14時 シアターZOOにて観劇

濃厚な観劇体験 弦巻楽団 舞台に立つ『ハムレット』

弦巻楽団 『舞台に立つ』「ハムレット」をシアターZOOにて。有名な台詞や、登場人物は知っていても、話そのものは知らないという、私にとってはマーク・トウェイン的な意味での古典。技量の差を配役の工夫でカバーして、演る人を含めてみんなが楽しめる芝居となっていたんじゃないかと感じました。
台詞が多くて重要な役は、普段から舞台で活躍している人が担当。シェイクスピアの台詞は詩だと言うけど、ハムレットの村上さんの長台詞は詩を詠ずるような感じ。たまに噛んでいたけど、それほど気にはならなかった。主役を張るだけのはあると納得できる出来。
遠藤さんもハムレットと入れ替わるように舞台を引っ張り、さすがと思って観ていたら、途中で台詞が飛ぶというまさかの事態。終盤に楽器のところに座っている姿が、心なしか放心しているようにも。力のある人だから大丈夫だと思うけど、悔しかったろうな。
効果音や劇伴も舞台上(奥)で演り、それこそ大きな音が出るときは、観ていてビクッとするほど臨場感がある。どれだけシーンをカットしたのかはわからないけど、充分にわかりやすく、濃厚な観劇体験ができました。ところで長尺版ってどれくらいになるんだろ。

  • 2018/03/29 19:00
  • シアターZOO
  • 約2時間

幸せになれる芝居 弦巻楽団『ユー・キャント・ハリー・ラブ!』

弦巻楽団「ユー・キャント・ハリー・ラブ!」を教育文化会館小ホールにて。観てきた。当然のように面白かった!教授のように観客みんなが岩杉さんに恋をしたんじゃなかろうか。出てくる人みんなが愛おしく、幸せになってほしいと思える芝居で、同じ空間に居る事が嬉しくなるひと時でした。
観ていると、なんとなくアメリカのテレビドラマ風に感じたりもするけど、実際に映像化すると意外に難しそう。実際にはありえない事象がけっこう出てくるのを、客席を笑いに巻き込む事で、細かい事はいいんだよという気分にさせてくれる感じ。
出演者は文句のつけようのない力のある人たち。その中で、遠藤さんが要所要所で効いていたような気がしました。そう言う役回りなんだろうけど、笑わせどころでのリアクションが絶妙。比較的常識人という設定なので、振り回されぶりがなんとも不憫(笑)
シーン名からセリフからシェイクスピア愛が溢れたこの作品。観るとシェイクスピアの作品に興味が出てくる。昨年のTGRでは3作品も上演されていたし、今年も何本か上演されそうなので、機会があれば是非観てみたい。そんな気持ちにもさせる作品です。
おそらく定番として何年かに一度は上演されるであろうこの作品。次回のキャストはどんなかな。今回のキャストや元のキャストでも観てみたいし、教授に温水さんというのも観てみたい気もするし。色々と想像しながら次回を楽しみに待つことにします。

  • 2018/02/11 18:00
  • 札幌市教育文化会館小ホール
  • 約1時間35分

上質のミュージカルのような 弦巻楽団『ユー・キャント・ハリー・ラブ!』

シェイクスピアを専門にする大学教授、奥坂雄三郎(永井秀樹)。
「恋愛は幻想に過ぎない」との持論を持つ奥坂教授は、シェイクスピアの作品のうちロミオとジュリエットなど恋愛を扱った作品をひたすらこき下ろし、講義でも扱ったことすらなかった。これはいまだかつて恋愛をしたことがない、恋愛感情を持ったことがない奥坂教授の個人的経験からの持論でもあった。
ある日、奥坂教授は研究室の研究生、堺鶴男(遠藤洋平)が持ち込んだラジカセから流れてきたコミュニティFM「ラジオヘルツ」の気象予報士・DJの冬樹里絵(岩杉夏)の声に突然恋をして、感情の高ぶりを抑えることができなくなってしまう。
そんな中、雑誌『セロリ通信』の編集長である沓掛あかね(小林なるみ)が奥坂のインタビューに来る。研究室にいる奥坂の姪にして助手である鹿鳴のり子(柴田知佳)が勧める取材だが気乗りしない奥坂教授。しかし、気象予報士・冬樹里絵が同行していて一気に舞い上がる奥坂教授。
指導教授の変節に翻弄される研究生、どうしてもうまくインタビューができない雑誌編集長、自身の結婚に失敗した冬樹里絵を巻き込み、奥坂教授の恋の物語がクライマックスを迎える。

チラシを読めば過去4回上演しているとのことなので、今回は5回目の再演である。
そして一言でいって、「札幌でこれほどのお芝居が観られるのか」というほど素敵な作品だった。振り返ってみれば、弦巻楽団のお芝居は『死にたいヤツら』『果実』などを観てきた。いずれもいい作品だったが、本作品は最高の一作といってもいい。5回目の再演がそれを裏付けている。

奥坂教授を演じた永井秀樹さんは青年団(東京)所属の役者さん。恋愛に苦悩し自分が翻弄される大学教授を見事に演じきっていた。そして気象予報士・DJ役の岩杉夏さん、思わず恋をしたくなるような声だった。遠藤洋平さん、柴田知佳さんは弦巻楽団ではお馴染みの役者さん、小林なるみさんも独特の雰囲気を醸し出していた。
出色はお芝居に無駄がないことだった。
いたずらに時間を延ばす演出ではなく、必要なことを必要なだけ演じる。弦巻啓太氏の演出のうまさだ。冬樹の気象予報はまったく当たらないのだが、それと奥坂教授の心の動きがシンクロした気象の演出は面白かった。また個人的にはシェイクスピア作品はほぼ読んでいないが、お芝居では10作品以上採り上げられ解釈が加えられていた。この解釈は弦巻氏自身の解釈であろうが、『ずいぶん読んでいるんだろうなぁ』と感じた。

とはいえ、少し気になったことがある。
声に恋した奥坂教授は番組にせっせとお便りを送る(速達でというのが笑わせる)。その中に、月はいつも地球に同じ面を向けているのはなぜかという話が出てくる。これをDJの冬樹里絵が番組で読み上げる。この話がお芝居の最終盤で奥坂教授と冬樹の会話の中でも出てくる。奥坂教授が「この話を知っているか」と訊ねたとき、冬樹は「いいえ」と即答するのだが、番組で一度紹介しているのだから、当然、知っているハズなんだけどなあ。

それにしても、である。
大学教授って、描きやすいキャラクターなんだなあと思う。持論が明確なだけにそこからずれるとかくも脆い。ここがこの作品のキモである。そういえば『死にたいヤツら』でも近松門左衛門研究の大学教授が出ていた。いじりやすいキャラクターであることは間違いない。(笑)

舞台装置もそうだし、使われた音楽もそうだし、オチもそうだが、ミュージカルを観ているような錯覚にとらわれた。決して歌って踊るお芝居ではないがお芝居のすべてがミュージカル的雰囲気を持っていた。

上演時間:1時間35分。

2月10日14時 教育文化会館小ホール

投稿者:熊喰人

焦れったいを楽しもう 弦巻楽団『ユー・キャント・ハリー・ラブ!』

恋をするのはいいこと。だけど追いかける方がいいし、追われるのもいい。捕まえたり捕まったりしたらおしまいだ。

ある日不意に恋に落ちた奥坂教授が恋を追いかける。逃げられそうになって落ち込んだり、チャンスを見つけて行動したり、生き生きしている。自分の持論さえひっくり返す。信じているものに根拠なんてない。登場人物たちの会話はキャッチボールだけどわかりあえてない。わかりあえていないのアンサンブルだ。何の合意もない。登場人物たちを結びつけるものだって曖昧なご都合主義だ。だけど、そこにある会話を、関係を僕らは楽しめる。

そうだ、いつだって僕らはわかりあえていない。だけど一緒に過ごす。言いたいことがすれ違うのに和音になっていく。共同体って思い込みだよって弦巻さんの作品は示してくれるって僕はいつも思う。一緒になれていないけど、一緒にいられる、その刹那を楽しもうって、そんな風に何かに所属してなくてもいいし、関わりを自由に広げようって言ってくれるようだ。

弦巻さんの作品は映像のようにクローズアップがいらないし、人物の視点を示す必要もない。舞台上でちゃんと誤解し合う登場人物たち、そのわかりあえなさを、楽しみ方を舞台で描いてくれる。舞台上にリアリズムなんてないんだから、その虚構の上で、僕らのノンフィクションを描いてくれる。きっと僕らの日常だってこの舞台のように俯瞰してみることができたらすごく楽しいんだよって。

弦巻さんの舞台は伏線も絶妙だ。だから人物の心情なんて、映像表現のリアリズムや恣意性がなくてもどんどん観客の思うように想像して楽しめる。安定しない天気は奥坂教授の心情を単に演出するだけじゃない。ダメ気象予報士のあっちいったりこっちいったり移ろいやすい恋心を読み取ったっていい。女性陣の衣装の多様さも、常に変化する女性、踊らされる男たち、ありきたりな恋愛の立ち位置を舞台の土台に読み取れる。変わらない場所で、いつまでも同じものにこだわり続けるのはいつだって男だ。男の子たち、ぼーっとしてると女の子たちは気づかないうちに大人になってしまうよ。教授が若い女の子に気づかされる。そうだ男はいつだって男の子で、お母さんの次に大人にしてくれる女性との出会いを待っているのかもしれない。

弦巻さんの戯曲の素晴らしさはわかりあえないことをちゃんと描いていることだ。僕らは愛し合い生活を営むけれど、だけど日々幸せ願って勘違いし合う。そのことに真正面から向き合っているって思う。僕はそんな風に弦巻作品を勘違いして弦巻さんの作品に恋をしている。

勘違いするほどに恋は楽しい
勘違いするからあなたを知りたい
勘違いするからあなたを慕う
わからないからあなたを知りたい
わからないことは恋の入り口
わからないまま恋は続いていく
僕らはわかりあえないままに寄り添って歩くだからこそずっと恋していける
だから焦らなくてもいいんだそれほシェイクスピアの主人公たちのように焦らなくても
今を生きる僕たちはわかりあえないままに楽しく踊ろう恋して踊ろう
わかりあえないけど一緒にいれるんだよ
わかりあえないから一緒にいたいんだよ
わかりあえないままあなたに恋し続けるんたよ
だから物語のように焦らず恋は焦らなくてもいいんだよ焦れったいを楽しもういくつになっても

誠実に勘違いしながら、隣にいる人たちといっしょに過ごしたいと思った。

焦れったいを楽しもう。
わかりあえないままに恋しよう。
刹那を楽しもう。
演劇を見たことない人にこそ見てほしい作品。
 
 
2月7日(水)19:00

投稿者:icuteachersband

新しい札幌の古典 弦巻楽団『ユー・キャント・ハリー・ラブ!』

堂々たる舞台だ。ちゃんと笑えて、いい気持ちにさせて、客を満足させて家路につかせる。観ただけで人生が少し豊かになる、そんな舞台が札幌にあることがうれしい。

札幌演劇シーズンのレパートリー作品として再演される本作は、今回なんと5度目の公演。これだけでもう面白いに決まってる。

もし「札幌演劇シナリオ傑作選」なるものが出版されたら、まっさきに載せられるべき作品、それが『ユー・キャント・ハリー・ラブ!』だ。

2005年の初演と2016年の演劇シーズン公演も観ているのだけど、観れば観るほどこの作品の良さは増す。そういった意味では、以前観た人にこそもう一度観てもらいたい作品だ。

特に今回は主役が代わった。これまでこの作品を支え、2016年の演劇シーズンに主演男優賞があれば受賞間違いなしだったであろう松本直人に代わり、東京から青年団の永井秀樹を招いた。

大丈夫なのか? 僕たちは松本直人を観に来てたんだぞ、という懸念はまったくの杞憂だ。これまでの初老・奥坂教授から、生き生きとした若さも感じる中年奥坂になり舞台は躍動感が増した。

なにより面白いことに、新しい配役を観ることで過去の舞台までも輝いてくる。かつて観た松本バージョンの『ユー・キャント〜』を思いだし、現在と比較し両者を楽しみあうのだ。

再演の良さが、まさにこれだ。同じ脚本を違う演出や異なる配役で観ることで多面的な視点から眺められ、立体的に楽しめる。

作・演出の弦巻啓太がパンフレットに書いているように、僕も様々な演出家や役者のバージョンを観てみたい。シェークスピアの脚本が古今東西、いろんな人の手によって解釈や実験を積み重ねられてきたように、この脚本も新しい試みや大胆なチャレンジに耐えうるはずだ。

落語や歌舞伎など日本の古典も演者が変わることによって作品本体の滋味を味わう。札幌オリジナルの作品でそういう古典が現在進行形で生まれ育っているのを体験できる、それが札幌演劇シーズンなんだなと、そろそろようやく、僕は気づいた。

 

公演場所:札幌市教育文化会館 小ホール

公演期間:2018年2月7日~2月12日

初出:札幌演劇シーズン2018冬「ゲキカン!」

 

大いなる実験 弦巻楽団#28 1/2 『リチャード三世』

「大いなる実験」という印象を受けた。
舞台にとくにセットはなく、かぶり物はあったものの衣装も黒ずくめで、少しばかりの鳴り物があったものの音楽もなし。それでいて総勢27名の出演。劇団に所属している者もいれば、この演技研究講座受講生もいる。
そして何より、ほぼ翻訳どおりのセリフを90分~100分ほどに収めようという趣向からか、セリフが超早口。滑舌が悪ければ聞き取れないこと必定。たしかに聞き取れない部分多数。弦巻氏はあえてそれを是認してお芝居を作り上げたものと思われる。

結果からいえば、お芝居の前半部分は、人間関係の説明が多く、しかもそれが入り組んでいたりして、話の筋がよく分からなかった。よく分からなかったばかりか、超早口のセリフがポンポン飛び交い、比較的抑え気味のセリフが続くためか、猛烈な睡魔に襲われてしまうから不思議。

後半もかなり後になって、リチャード三世の傍若無人の振る舞いに辟易したリッチモンド伯との戦い、そして大団円に向かう場面で、セリフがややゆっくりして話の内容が見えてきた感じだった。
改めて考えてみると、お芝居を前半・後半に分けると、前半をどうやって乗り切るかが演出上重要であることが分かる。どうしても登場人物のキャラクターを紹介する場面が多くなる。観客もどんなシチュエーションなのか理解しようとする。ここがはっきりつかめないと、前半がつまらなくなってしまう。
お芝居は本当に難しい。

演劇研究生の発表の場であることを考えると、「やりきった感」を実感してもらうという主旨だったのであろうし、今日のお芝居も全員が「出し切った」といえるだろう。弦巻氏がリーフレットで書いていたが、このお芝居を通して、次の時代の役者さんが登場することを期待したい。

そういえば「#28 1/2」は前作が#28、次作が#29であることが決まっているので、その中間にあるのがこのお芝居(演劇研究生の演劇)という意味でしょうね、きっと。

このお芝居は23日から26日までの公演だった。千秋楽のお芝居を観劇したが、観客が少なかったのが残念だった。関係者はすでに観劇していたのかもしれない。

上演時間:1時間40分。

11月26日14時 サンピアザ劇場

投稿者:熊喰人

好感の持てる舞台と試み 弦巻楽団#28 1/2 『リチャード三世』

リチャード三世について知ったのは、歴史ミステリの名作であるジョセフィン・ティの『時の娘』を読んだとき。その後、薔薇戦争をテーマにした小説や漫画のいくつかを読みはしたが、シェイクスピアの『リチャード三世』については「物語の展開と主要人物をおぼろに把握している」という程度の知識しかない。
だがなぜか「冒頭のリチャードのセリフが有名」ということは知っており、ちょっと楽しみにしていた。…ので、前王の語りからのスタートはちと残念ではあった。

弦巻楽団の演技研究講座の成果発表は前作『コリオレイナス』を観ており、早回しの演出と出演者の技量のばらつきは予想していた。が、本作の特に前半は、嘆きと怒りと陰謀の甘言の繰り返し。人が見えねば処刑すらもただの繰り返しに過ぎず、力ある出演者が不在の場面では舞台への集中を保てなかった。セリフを聞きながら、「イ」の段の特に「シ」の音、ラ行が続く「られる」やア音が続く「あなた」「やわらか」などの言葉は、聞き取りやすく語ることが難しいのだなぁ、などと考えていた。

しかしながら、みんな一生懸命に演じていて好感の持てる舞台ではあったのだ。
「いいなぁ!」と思ったのは、ヨーク王子(石川凜)の闊達さ。マーガレット(牧野桃花)の嘆きも雰囲気があった。リチャード(相馬日奈)がヘイスティングス(柳田裕美)に言いがかりの罪を着せる場面が好きだった。リッチモンド(鈴山あおい)は清廉な若者らしさが気持ちよかった。

それにしても。弦巻楽団の講座の取り組みはいろんな意味で興味深い良いチャレンジだと思っているが、作品(成果発表)と観客と価格の関係性については考えてしまうところがある。弦巻啓太という作り手の試みを継続的に応援している人や出演者の身内であれば、一般前売り2000円はサポート価格として高すぎることはないのだが。「講座の成果発表」と明記しているのだし、それ以外の観客は来ない前提なのかな。…いや、こんなことを考えるようでは小劇場演劇を観ることはできない、ということかも。
 
 
2017年11月25日14:00 サンピアザ劇場にて観劇

伝わるもの:弦巻楽団#28 1/2 『リチャード三世』

大好物のシェークスピアを演じてくれてありがとう。演技研究講座で舞台に立った挑戦者たちを応援したい。という気持ちで、感想を書かせていただこう。

簡潔に筋を追った素直な演出に、俳優陣が一所懸命について来た、正しい成果発表会だった。長いセリフが多いところを劇団員以外のメンバーもよく頑張っていたと思う。みんな、自分の思う成果は出せたかな。

ご存知のように、シェークスピア戯曲には、細かなト書きというものがない。主人公のリチャード3世がいわゆるせむしでびっこというのも、始まりの彼自身の有名なセリフで語られるのであって、登場人物書きにそう記されているわけではない。状況はすべてセリフから読み解くか想像するしかない。セリフ内容と食い違わなければ、服装も動きも何でもオーケーなのだ。これは、シェークスピアが現代風にも中世風にも自由に演出できる所以であり、演者に限りない自由な動きを与えるものだ。逆に自分なりの人物像把握と想像力がないと、ただ突っ立ってセリフを言うだけになってしまう。本作品での挑戦者たちは、未だミニマムな身体表現で物足りないものの、彼らの緊張感が真摯さとなって伝わって好感がもてた。生の人間たちを生の人間が見るのだから、伝わるものはストーリーや理屈だけではない。演劇とはそんな生き物だ。

キラッといいなと思ったのは、ヨーク王子の石川凛氏、リッチモンド役の鈴山あおい氏。これも理屈ではない。

リチャード3世は、ただ容姿も根性も悪い奴、だったかも知れない。恋もできないから権力に走った、というのもある。そうなのだが、この王位をめぐる一連の虐殺は、彼を嘲笑した周囲の人々への仕返しというのみならず、神への反抗であったと思う。戴冠式が教会で行われるように、英国の王位は神から授かる。王位を奪うことは、本人の嘆く醜い体に造った創造主である神への挑戦、反抗だった。戯曲最初のリチャード3世が我が身の不具を自嘲するセリフは本作ではカットされていたが、自らこれから行う悪業の動機を語ったものでもあり、それは創造主である神への恨みと当てつけでもあった。状況はどうあれ、兄弟殺しという、聖書のカインとアベルを思わせるプロットから始まることも、神に愛されていないことを不満に思う者が自分を認めてほしくて行う殺人を示しているようだ。やはりこのセリフで始めてほしかった。

以前にもどこかで述べたのだが、誰がどうしたって翻訳されたシェークスピアは色彩を失う。それは言葉の美しさとリズムだ。「リチャード3世」は、マーガレットや王家の死者たちの呪い文句が美しい(?)。「絶望して死ね!」というより「Despair and die! (デスペア アンド ダイ)」の方がエコーかけた時きれいに響くでしょ。

それでもどんな言語でも、シェークスピアを演じる価値は計り知れない。特に、歴史物と言われる本作などの王位をめぐる戯曲は難解に聞こえるが、歴史に関係なく、政治ドラマだと思えば面白い。

弦巻楽団の演技講座がシェークスピアを取り上げていることに安堵する。何と言っても演劇のグローバルな基本だし学ぶことは多い。長く続けてほしいと思う。

 

2017年11月25日14:00 サンピアザ劇場にて観劇

寿限無の暗誦かと 弦巻楽団 ♯28 1/2『リチャード三世』

リチャード三世はシェイクスピアの書いた、いわゆる古典という事で皆さんは内容をご存知なのでしょうが、とにかく観劇経験の浅い僕にとっては物凄く早いテンポ。これが普通なんですか?特に序盤は役者さんの活舌の悪さ、後ろを向いて台詞を話されるときには、ほとんど聞き取れない。頭に入ってこない。外国人の名前だし、地名だし。

僕には全然わからないまま終わってしまうのではないか。と思いながらも、必死に食らいつくように観劇しました。本当に、皆さん寿限無の暗誦してるの?というペース。
途中の老人役が登場して少しペースが落ちたところで(と言ってもやはり全体的には早いし、正直まだまだツライ)、主人公リチャード役の相馬さんの台詞に抑揚がついてきて聞きやすくなってきました。悪い顔もなかなか良い感じでした。

おしなべて長台詞の人たちは、自分が言えているだろうと思いながら息継ぎをしているのだけれど、僕は前のほうに座っていたにもかかわらず全然聞き取れなくて残念でした。特に大事な場面でやられるとやっと頭の中にできてきた相関図がぐしゃっとなりました。
あとでパンフレットを拝見したのですが、役者の方と一般の方が混合されていたようなのですが、役名を確認すると役者の方にこそその傾向が顕著だった印象。なにか、一息で言い切らないといけないルールが存在しているのでしょうか?

あとはリチャードが身体が不自由であり、口が達者なところでのし上がる、というところが醍醐味なのではないかと思うのですが、その相手をやりこめる、コロッと騙されていく語り口がしっかり聞き取れないのは、水戸黄門で最後に印籠だすからまあ途中のことはそこそこでいいでしょう、という感じがしました。なんで身内が殺されたのに妻になったり、娘を差し出すことになったりしたのか未だにわかりません。

とはいえ、ラストシーンはダイジェストのように重要な役がでてきたので、なんとなく相関図の確認ができたし、役者さん達の真摯な芝居に熱が伝わってきました。やりきった皆さんの顔はとても清々しかったので、こういった表現の場を与えている弦巻さんの意思の表現は成功しているんだろうなと感じました。
 
 
11/24 18時 サンピアザ劇場

投稿者:橋本(30代)

熱量を感じた  弦巻楽団♯28 1/2『リチャード三世』

舞台が始まるとキャスト一斉に登場し、リチャード役の相馬さんは目付きや立ち振る舞いからも雰囲気が溢れていた。年齢や経験も違う。声量のバランスや滑舌などバラバラであったがそれを上回る熱量であった。

練習の成果が現れた舞台てした。お話は、凄まじいスピードで流れていく。衣装は全員黒で覆われていて統一感がありました。物語が難しい分途中で話が分からなくなった人も多いと思われる。役も入れ替わり立ち代り楽器を使った演出が魅力的でした。「舞台に立つ」は毎年3月に行われていたが今年初めての11月公演でした。来年の3月にもあるそうなのでその際は是非足を運んでいただきたいです。
 
 
11月24日19時 サンピアザ劇場

投稿者:N.atuki(10代)

語り合わない人たちの人生の交差模様 – 弦巻楽団『サウンズ・オブ・サイレンシーズ』

いるいる、こういう人。そして人間とはまさにこのようなもの。という共感を持って観た。

母を看取った姉。家を出て、仕事も恋もそれなりに順調そうな妹。妹の恋人。その同僚で姉の見合い相手の男。『サウンズ〜』は、男女4名の人生が交差する様をそれぞれの視点から繰り返し描き、その先の展開を読者に投げかけてくる作品だ。

「声にならない言葉」を想像し、慮ることでかえって事態は窮屈になっていく…。
思いやりと気づかいの間で押しつぶされる、現代人のコミュニケーションを題材にした悲喜劇。

ホームページの作品紹介には、上記のように書いてある。
だが私には、自分自身の内側にある本当の意味での語らない言葉の存在から目をそらし、「平穏」を守ろう・手に入れようとする人々の物語に見えた。

人間の行動の動機は大抵の場合、一つではない。複数の要素が絡まり合って行動の流れを生み出している。

突き詰めて考えてみたときには、ある行動や言葉が、果たして思いやりから出たのか、我が身可愛さによるものなのか、自分自身でも判然としないことのほうが多いのではないだろうか?
思いやりと気づかいの陰に、我欲や自己保身が1ミリもないと言えるだろうか。あるいは自己憐憫の快感は?

『サウンズ〜』の人間造形には、このように考えるひねくれた観客(私のことだ)の深読みを受け入れるだけの幅がある。
 
例えば。
つぐみは姉の想いを知っていたのではないか? だからお見合い計画を執拗に進めたのではないか。つまり、自分のテリトリーを守るために、だ(あれほど無遠慮でしつこいお節介には、語っている以上の理由がほしくなる)。

つばめは、自由気ままに振る舞う妹のものだからこそ欲しいと思った可能性はないか? 自己犠牲に浸りながら流す涙は心地良かろう(と、経験から思う)。特に恋する人の前でなら。妹の裏を掻いた喜びはないか? そして、その後の行動に打算やあてつけは?

…このように書いているからといって、私は登場人物がことさら酷い人間たちだと思っているわけではない。ただ、同時に善でもあり悪でもある不可解さ、心に美醜が混在する点こそが、リアルな人間らしさであるように思うのだ(そして『サウンズ〜』の人々がこのように見えるのは、私自身が心美しからぬ卑怯で愚かな人間だからだ。もちろん)。

 ◇ ◇ ◇ 

 
この作品で描かれているのは「沈黙」、語り合いの不在だ。

つばめと渉は、それぞれつぐみに対して「どうせわかってもらえない」「喋ったところで相手は変わらない」という諦めをもっている。…そうかもしれないが、内側に不満の言葉を抱えて黙っていた挙げ句に「そんなことになるくらいなら」、語り合ってみてもいいだろうに。…まぁそう理屈通りにいかないのが人間というもの。

集はつばめに対して「どんな本音であっても受け入れる」というが、自身は大事なことをつばめに伝えていない。自分は本音を語らない人に、誰が率先して本音を語るだろうか。

つぐみだけはよく喋り、周囲を動かそうとしているように見える。だが彼女こそ、自分と他人の中にある語られない言葉に対して、無自覚な人間ではないだろうか。
 
 
本当の意味で語り合いわかりあおうとすることは、大変なエネルギーを要する面倒な行為だ。日常的には、そのようなことをしないほうが「平穏」である。私も概ねそのようにして生きている。その意味で、私は『サウンズ〜』が描いているものに納得する思いがある。

 ◇ ◇ ◇ 

 
「何を言われても大丈夫ですから。あなたの本音なら。」といった集は、ラストでその言葉に伴う覚悟を問われることになる。

集とつばめは、互いに永遠に嘘を付き続けることでしか幸せになれないのかもしれない。4人は永遠に口をつぐみ嘘を黙認し続けることで、「平穏」を守るのかもしれない。

あるいは、誰か一人が口を開くことで、関係はドミノのように倒れていくのかもしれない。
または、集とつばめが互いに真実を語り受け入れあって、幸せを築くのかもしれない。
 
 
私は冒頭で「結末の先を読者に投げかけてくる作品」と書いた。しかし私自身は、この先の展開についてはさほど興味はない。恐らく脚本家もそうだろう。作中でわざわざ映画『カイロの紫のバラ』のエピソードを持ち出し、ヒロインの微笑について集に語らせていることに注目したい。

たぶん脚本家はこう言いたいのではないだろうか。
「人生がどのように揺れ動き破れようと、その先にまた喜びはある」と。
 


「時間軸を入れ換える」「同じ場面を視点を変えて描く」という脚本構成は弦巻啓太の十八番だが、人間のリアルを提示して見せている、という意味では、私が知る限りでは本作が最も成功しているのではないかと思う。

初演時の演出では、滑稽な強調が物語のトーンを乱しているように感じ、またその他の場面では間合いのだるさが気になった。今回の再演では、滑稽さは抑えられ、人間性を伝える演出になっていた。序盤からの姉妹の会話の間の合い方が気になったが、中盤にかけてはナチュラルな間のはずし方になっていた。つまり、たたみ掛けて喋る人物もスローに喋る人物も、素早く切り返すこともあれば、間を置いて返答することもある、というふうに。

疑問が残ったのは「視点」の演出。集の語りからの場面のみ、集視点でのシーンの解釈がはっきりとわかる(集が、物事をよい方向に解釈する、わりと脳天気な人間であるとわかる)ように演出されていた。とすると、他のシーンも各人物から見えている場面として演出されていたのだろう(私は脚本的な視点構成しか気が付いていなかった)。
だとすれば、つばめと渉のシーンはつばめ視点の演出ということ。だがあの場面の渉は、つばめの目に映った(つばめに都合のいい)渉というよりも、渉らしい渉だったように思う。どうだろうか。というかあのシーン、もうちょっと落ちざるを得ないオーラがほしい…。
 
 
2017年9月6日 20時〜 シアターZOOにて観劇

弦巻流静かな演劇・感じたままに 弦巻楽団『サウンズ・オブ・サイレンシーズ』

サイモン&ガーファンクルの名曲『サウンド・オブ・サイレンス』はラジオとレコードで知っている。それがこのお芝居では「沈黙」が複数形になっている。沈黙って、区切ることが可能な個別に存在する現象だろうか? そもそも複数の人間のあいだに分かちがたく漂って在るのが沈黙ってヤツなのでは? 
とまぁ、そんなことをつらつら考えながら劇場へ向かった。

姉つばめと妹つぐみ。妹の恋人、渉と職場の先輩、集。舞台上に登場する人物は4人。みな、「名は体を現す」かのような印象的な名前だ。つばめ役の塩谷舞さんと、渉役の深浦佑太氏の感情を抑えた静かな語り。時々ハイテンションに暴走しかける(が、あくまで未遂の印象…の)集役の温水元氏。一人だけ相手を断定することに躊躇せず、感情を炸裂させるつぐみ役の成田愛花さん。この4人の舞台上の声量バランスが絶妙だったと思う。感情の起伏をあざとく「盛る」ことのないお芝居に久々に出会えた気がしてホッとした。笑って元気になったり、泣いてカタルシスを得ることももちろんある。けれど、ふつうの熱量でふつうに話しかけられることを、そしてそれにふつうに応えることを、いまの自分は欲していたのかなと感じた次第。大きな声だけが「聞える」わけじゃないからね、日常では。

とはいえー

このお芝居で「聴こえた」気がした言葉にならない言葉は…怖かった。4人のうち、抱えてきた屈託を一番打ち明けたい相手に伝えられたのは、唯一つばめだけだったと思う。(あれってまさにつばめ返し?)
が、だからこそと言うべきか、弦巻流静かな演劇のラストに提示される未来は、私にはもの哀しかった。やるせなかった。その選択でいいの?つばめさん、と、思わず話しかけたくなるほどにー。
人の数だけ生き方があって、「正しい」も「間違っている」も「グレーゾーン」も人の数だけあるのだとしたら、「受け入れる」という行為にしか、未来はないのだろうか? でも黙って「受け入れること」=「穏やかな関係」とはならないのが、愚かな人間の哀しい性ってヤツなんじゃないかとー。
つばめが看ていた母との会話の回想にも感じたことだ。胸をえぐられる気がした。(あの痛さに比べたら、たとえば恋愛の傷なんかかすり傷にもならない。のではないかともー)

舞台装置について。ときおり耳がとらえた水音。川の音ー。そして、あの音に照射される光の揺らぎに喚起される感情が、ツアーの舞台では、きっともっと拡がりのあるものになるだろうと想像している。あぁ、ツアー観に行きたいなぁ。

最後に。札幌プレ公演をプロデュースしてくれた信山くん。映画『海炭市叙景』で小林薫の息子役を演じていた高校生が、こんなふうに育ったなんてそれもまたおばさんは嬉しく。ありがとう。

弦巻楽団の健闘を祈る。また客席で唸らせてください。
 
 
2017年9月6日 20時〜 シアターZOOにて観劇

投稿者:本間 恵

静かな話 弦巻楽団『サウンズ・オブ・サイレンシーズ』

弦巻楽団「サウンズ・オブ・サイレンシーズ」をシアターZOOにて。まず札幌で上演してくれた事に感謝。ありがたや。静かに進むけど、同じ場面が別の視点、証言で繰り返される「藪の中」型の話。観終わった後に、その後を色々と想像し、場面場面での意味をもう一度考えたりして、誰かと話したくなる。
姉の話し方が特徴的。台詞だけ聞くと、泣き叫んでもおかしくない内容なのに、あくまで抑制を利かせた風に話す。本当に怒っている人が怒鳴らずに、そして決して許すつもりがなく話している場面に居合わせたみたいな心持ちになる。後からじわじわ来る怖さ。
話が静かに進むように見えるのは、感情的な話し方をしているのが妹だけだから。残りの人物も、感情表現を大きくしてしまえば、内容・台詞からみて相当印象が変わる話だと思う。もっともそうなると、この作品の魅力がかなり減じてしまうのだけど。
静かなお芝居だけど、水音が印象に残る。満ち潮、引き潮が人の誕生と死に関連するなら、水槽の水の泡立ちは何に関連するのだろう。表面化していなかったものの発覚なのか、誰かの心の乱れなのか。うーむ、書いているうちに、もう一度見たくなってきた。

  • 2017/09/06 20:00
  • シアターZOO
  • 約1時間30分

夏の終わりに星を見上げて。─弦巻楽団『ナイトスイミング』

<再演観劇にいたるまで。>

2014年の初演時に僕は本作を2回拝見しました。その年のTGR(札幌劇場祭)では上位の受賞は叶いませんでしたが、僕としてはその年に観た数多の作品の中で、最も評価の高い作品のひとつでした。
だからこそ再演には大きな期待もしたし、反面不安もありました。
初演はターミナルプラザことにパトスの小さな舞台にシンプルな装置。(妙な言い方ですが)ラジオドラマを見ているかのように、想像の上に大宇宙を広げることで物語世界が完成していたように思います。(実際、ラジオドラマ版の『ナイトスイミング』を作ってくれないかなあと考えたくらいです。)
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異界の童子に救いを求めて 弦巻楽団『ナイトスイミング』

演劇は生モノだし、観客も生モノだ。つまり双方のコンディションによって見えるものが変わってしまう。
珍しいことに、私は寂寥に捕まっていた。普段は追いつかれない速度で生活しているし、不意に現れても無視したり飛び越えたりしてやり過ごしているのに。ちょっとした失望をきっかけに、あれれ、気が付いたら背負ってしまっていた。
だから『ナイトスイミング』の観劇予報に書いた「無限の宇宙の孤独から私も一緒に救い出してくれることを期待」という言葉は、紛れもない本音だったのだ。

 
『ナイトスイミング』を観るのは2回目だ。2014年の初演では冒頭から惹きつけられて観たのだが、クライマックスで作品と私とのリンクが切れてしまい、淋しい思いを味わった。全体的な完成度は高かった分、余計に。
今回の上演でも、とても完成されていると感じた。会場の四方から走り込んだ初演のダイナミックさと一体感はなかったけれど、サンピアザ劇場なりの宇宙があった。詳しくは他の方の感想をお読みいただきたい。
私が一番いいと思ったのは、深浦佑太が演じるサルタだ。冒頭などに登場した、椅子の上に中腰になって、腕で空を掻きつつゆっくりと回転する動き。まず、これがとてもいい。いかにも宇宙を漂っている風で、イメージが広がる。
サルタの人間性も、「魂をどこかに置き忘れた男」「過去の幽霊に出会った男」という表現にリアリティがあり、「20年という歳月は大きいよ?」と思いつつも15歳のままの友人と再会した男の物語には共感することができた。

 
しかしながらクライマックスではやはり、私は置き去りにされてしまった。
この作品のテーマは「助けに行く」という約束にある。15歳の子どもが為す術もない宇宙事故にあって「助けに行く」と誓い「お前は生きろ」と言う。初演ではこの非現実性が私に水をかけた。
今回はどうだったかというと。
この作品は寓話なのだな、と思いつつ観た。15歳のままの友人たちが暮らす惑星は異界、たぶん幽冥界だ。約束は非現実的であってもいいのだ。むしろ約束として聖性を帯びるためには、子ども達は生身であってはいけない。嘆きは賽の河原の子どもの如くにあればいい。ピュアに正義と約束を叫ぶなら、神仏の遣わす童子のごとくに霊的な存在であってほしい。
三年前の上演では、子ども達は演技につたなさはあってもフレッシュであり、異世の童子のムードを持っていた。しかしクライマックスでは人間くさい熱い叫びと死者からの語りかけのようなセリフが私の中でマッチせず、受け取れなかった。
今回は、たぶん最初から子ども達は人間だった。しかし今の私は、童子の無垢に救われたかったのだ。

 
いくつもの約束を踏みつけにし、踏みつけもされ、泣いたりわめいたり諦めたりして大人になってきた。だからこそ今の私にとって、約束は大切なものだ。できない約束は極力、しない。約束したなら全力を尽くす。その点において、サルタのその後の20年に共感はしない。
異界の童子は死者たちかもしれない。
私の死者たちは、私に約束を迫らない。ただ生きよ、と言う。いつかお前もこちらに来るのだから、それまで好きに生きよ、と。なので私はサルタとは違い、いま目の前にいて私を支えてくれる生者のために生きている。
そして本当に大事に思っていることについては、私は生者にも死者にも約束しない。言葉にしないままただそこを目指して歩いていく、私はそのように生きたいと願っている。
 

2017年7月12日 サンピアザ劇場にて初日観劇

 
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2014年11月上演時の感想(TGR札幌劇場祭2014審査時の備忘録より)

◎あのときの選択をもう一度

「過去の選択を後悔している主人公Aが、超自然的な力で再度選択するチャンスを与えられるが、最初と同じ結果しか得られない」という構造が共通する作品をここに分類した。テーマもテイストも全く違うが、選択がループするところまで同じなのは奇遇だった。

g)弦巻楽団『ナイトスイミング』

タイムスリップものは往々にして主人公が時を超えるのだが、『ナイト~』では時間軸を彷徨う惑星が過去の人間たちを乗せて現れ、それを主人公が発見する。
そこにいたのは15歳のときにロケット事故で遭難した同級生たち。彼らにとっては事故後1カ月だが、主人公は既に35歳。感慨にふけりつつ、かつて果たせなかった「助けに行くから」との誓いを今度こそ守りたいと思う主人公。助けに来るのは主人公と共に事故で生き残った同級生2名だ。
登山ならともかく、現場に戻るのも難しいだろう宇宙事故で15歳が「助けに行く」と誓うことに違和感があったが(生き残りの罪悪感ならわかる)、ユニークなアンドロイドの存在による場面の面白さや、錯時を用いて最初の遭難事故の経緯を小出しにする展開には引き込まれた。劇中劇の『走れメロス』との関連付けも効果的だったと思う。

しかし、「一番いいシーン」であろう二度目の選択がなされる場面で、私と作品とのリンクが切れた。恐慌の事故場面にしては、15歳の少年少女の言うことが理想的すぎる。これでは既に死んだ人からの「生きろ」というメッセージみたいだ。そうと思えば、むしろ二度目もあっさり選択がなされて、その後に「主人公による積年の後悔の独白、幻の同級生からのメッセージ」という展開であれば、感情の流れとして自然に受け入れられたような気がする。
ラストは、主人公に特段の努力・変化がなくとも運命はときに優しい、ということか。

演出・演技により、ほとんど椅子しかない空間にロケット、惑星世界、教室、記者会見場、宇宙空間などが出現し、広がりのある世界への旅を楽しめた作品。シリアスと「場面の面白さ」のバランスが良く、役者の熱量も十分で、娯楽作品としては完成されていると感じた。

過去と向き合う 弦巻楽団『ナイトスイミング』

弦巻楽団「ナイトスイミング」をサンピアザ劇場にて。面白かった!会場が変わり、舞台の形も変わったけど、面白さと感動は変わりませんでした。入場すると、上からぶら下がっている11枚のパネルと奥がせり上がっている舞台。囲み舞台(?)だった前回と比べると、オーソドックスな作りでした。
舞台のせり上がりとパネルは何か新しい事に使うというより、見易さを追求した結果という感じ。役者さんは劇場全体を使っているので、最前列で観劇していると、後ろから聞こえてくる台詞で、舞台に取り込まれたような感覚になる事もありました。

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ヒーローになれなかった者たちへー弦巻楽団『ナイトスイミング』

メロスは走り続けた。もうやめようかと思いながらも、友のもとへ向かっていた。一方、本作主人公のサルタは、友を思いながらも、走ろうとはしなかったのだ。宇宙が怖くて友を探しに行こうとしなかった。上司に無理を言われて断りきれず職務上やむなく行ったのだ。自主的に友のもとへ向かったのではない。運命的にか偶発的に、宇宙に残されていたクラスメイトたちに出会ってしまったのだ。「ずっと苦しんでいたんだ」と言っても虚しい。明らかにレスキューに来たヒーローではない。メロスでもない。名前も変えて過去から逃げていたのだ。そんなサルタに、タケミナはじめクラスメイトは自然体で優しかった。この惑星でサルタらが見つかるかも、と席を空けて待っていた。彼らは中学生のままという、時空を行き来する壮大な舞台設定があるから可能な世界。ヒーローは、信じることをやめない彼らだった。笑顔で手を振ったタケミナだった。

タケミナ役の佐久間泉真さんが、実に生き生きとしていて魅力的だった。コリオレイナスも良かった。あとで知り合いが、d-SAPをしてくれている彼だよ、と教えてくれた。今後の活躍を期待したい。思ってたんだけどできてませんでした、という普通の人である主人公サルタを深浦佑太さんが好演。女子たちの熱演もいい。若い観客の皆さんが、時に笑い、最後には精一杯拍手していたのが印象的。

彼らのいる世界をあの世ととらえることもできる。大震災や大雨被害が多発する昨今、生存者の中には親しい者たちを助けられなかった、という辛い記憶に自分を責める人もいる。亡くなった人々が、あの時のまま、違う惑星で生きているとしたら。いつか出会うことがあるかも知れないとしたら。何もできなかった君を、私を、何も責めず抱き入れてくれるとしたら。それは、君は君のまま頑張れ、という、ヒーローになれなかった者たちへのエールだと思いたい。

連続猛暑の札幌。クールな舞台色で涼をとれてよかった。水族館でやるというのはどうかな。

2017年7月13日15:00 サンピアザ劇場にて観劇

初心が生んだ奥深い傑作 弦巻楽団『ナイトスイミング』

演劇の楽しさというシンプルな初心の誠実さを持った、スッと美しく均整のとれた、しかも確かな質量を持った劇に出会えた喜びで僕は久々に満たされました。ぜひ、再演を重ねて多くの人に長く劇の成長を見てもらえる弦巻楽団の宝にして欲しいと思います。なかなかしないことですが、作家の頭の中が知りたくて上演台本を買い、弦巻自身にサインしてもらったくらい。

SFって映画では大好きなジャンルですが、お芝居では苦手です。SFというしつらえが、絶対的な必然性があると思えないことが多いからです。この点は、やられました。SF万歳!劇の粗筋はあえて書きません。「ナイトスイミング」は、2014年のTGR札幌劇場祭参加作品で、観客賞にあたるオーディエンス賞を受賞したばかりではなく、若手演出家コンクールで最終審査まで進出した作品です。弦巻は、演出ノートで「演劇にハマって、あの時夢見たことをやろう。憧れていたことをやろう。ただやりたいことをやろう」、と書いています。作家が「書きたいこと」を劇にしたという、真っ直ぐさがこの劇の善なるものを支えています。確かに設定はSFですが、奇をてらうことなく速球勝負な作劇がやはり弦巻の持ち味でしょう。主人公のサルタ(深浦佑太)が不時着した謎の星で、かつて宇宙船の事故で亡くなったはずの同級生たちと出会う長いシークエンスが劇をグイグイと引っ張るのですが、学芸会で練習していた「走れメロス」のくだりが主題の通奏低音として見事に鳴っています。とにかく本が素晴らしいです。劇の構造もさることながら、同級生たちがいる星の1ヶ月は地球時間で20年経っているという浦島太郎のジレンマも、時には力技もありますが、最後まで破綻することはありません。台詞がとてもキレイで、「必ず、助ける!必ず戻ってくる!」「君は、ちゃんと大人にならなきゃ」「私は約束を守ります」という平易な台詞が粒立って胸を打たれました。誰もが思春期に経験する友情や友だちとの葛藤、そして挫折や苦い後悔、蹉跌のようなものを背景として、物語が進むにつれ劇の世界は奥行きを増していき、どこか僕たちの内面の普遍に到達しています。

人物も非常によく彫られていて、舞台がきちんと演出家の意思で回っていることが感じられました。キャスティングとアンサンブルも素晴らしかったと思います。生き残ってしまったサルタ、ミシマ(村上義典)、オクヤマ(成田愛花)は出色。サルタを演じた深浦のずっと体温の低い演技はとても計算されていて、自分たちだけが生き残ってしまったという違和感や先へ進めない感をよく出していました。だから、終劇の方での感情を爆発させる台詞「助けられなかった。何も出来なかった。約束も守れなかった。俺は、生き残りたくなんてなかった…出来るなら、皆んなと死にたかった‼︎ 20年間、ずっとその場所を探していたんだ‼︎ 」が、リアルとして壊れていく宇宙船内から溢れ出しました。サルタの親友だったタケミナ(佐久間泉真)、アンドロイドの添乗員カモワケ(遠藤洋平)、メロス劇での王を演じたハチマン(山木眞綾)も印象に残りました。バックステージも見事でした。美術(川崎舞)、衣装(佐々木青、斎藤もと)、振付(渡辺倫子)。コンカリーニョ付きの照明の高橋正和は、いつもながらのプロフェッショナルな匠の美しさで劇を盛り立てました。

「ナイトスイミング」は、きっとSFジュブナイル劇なのかもしれません。誰もが大人になるためには、未来という見通しの極めて暗く不確かな夜のプールを、できれば泳ぎ切らなければならない。何か大きなものを失って、大切な誰かを失っても、僕たちは生きていく。ここではない何処かへ向かって。この作品は、ぜひ弦巻楽団のレパートリーにして、再演を通して大きく成長させて欲しいと思います。弦巻啓太という作・演出家のシグナチャーがよく出ていたし、感じられました。

ちょうど、観劇した日にチカホで、12シーズン目を迎えた札幌演劇シーズン2017-夏-のキックオフがおこなわれました。実行委員長も、荻谷忠男氏から北海道テレビ社長の樋泉実氏に引き継がれました。より一層、演劇都市札幌のために尽くして頂きたいと思います。参加5団体、yhs、パインソー、ミュージカルユニットもえぎ色、イレブンナイン、そしてintro がそれぞれ趣向を凝らしたパフォーマンスでキックオフを盛り上げてくれました。劇とは、舞台と観客の間に立ち昇る一期一会の奇跡のような出会いです。札幌の演劇シーンの盛り上げの片方の主役は、僕たち観劇人ですよね。責任重大。これからも観て、応援したいと思います。

最後に。この劇の終わらせ方は観客それぞれとの相性があると思います。サルタとタケミナの関係性は、それほど伏線がきちんと張られているとはいえないので、いきなり回収されたような印象を持った方もいらっしゃるでしょう。僕は、人が書き、演じるナマモノである演劇は、あまりキメキメでなくてもよいと思っている派です。物語の流れと台詞の力、そしてなんともいえない役者同士の身体性の交歓は成立していたと思いますし、だから最後の台詞はサルタ(深浦)ではなく、タケミナ(佐久間)に作家は与えたのだと、僕は好感しました。付け加えておきます。

7/13(金)サンピアザ劇場