いるいる、こういう人。そして人間とはまさにこのようなもの。という共感を持って観た。
母を看取った姉。家を出て、仕事も恋もそれなりに順調そうな妹。妹の恋人。その同僚で姉の見合い相手の男。『サウンズ〜』は、男女4名の人生が交差する様をそれぞれの視点から繰り返し描き、その先の展開を読者に投げかけてくる作品だ。
「声にならない言葉」を想像し、慮ることでかえって事態は窮屈になっていく…。
思いやりと気づかいの間で押しつぶされる、現代人のコミュニケーションを題材にした悲喜劇。
ホームページの作品紹介には、上記のように書いてある。
だが私には、自分自身の内側にある本当の意味での語らない言葉の存在から目をそらし、「平穏」を守ろう・手に入れようとする人々の物語に見えた。
人間の行動の動機は大抵の場合、一つではない。複数の要素が絡まり合って行動の流れを生み出している。
突き詰めて考えてみたときには、ある行動や言葉が、果たして思いやりから出たのか、我が身可愛さによるものなのか、自分自身でも判然としないことのほうが多いのではないだろうか?
思いやりと気づかいの陰に、我欲や自己保身が1ミリもないと言えるだろうか。あるいは自己憐憫の快感は?
『サウンズ〜』の人間造形には、このように考えるひねくれた観客(私のことだ)の深読みを受け入れるだけの幅がある。
例えば。
つぐみは姉の想いを知っていたのではないか? だからお見合い計画を執拗に進めたのではないか。つまり、自分のテリトリーを守るために、だ(あれほど無遠慮でしつこいお節介には、語っている以上の理由がほしくなる)。
つばめは、自由気ままに振る舞う妹のものだからこそ欲しいと思った可能性はないか? 自己犠牲に浸りながら流す涙は心地良かろう(と、経験から思う)。特に恋する人の前でなら。妹の裏を掻いた喜びはないか? そして、その後の行動に打算やあてつけは?
…このように書いているからといって、私は登場人物がことさら酷い人間たちだと思っているわけではない。ただ、同時に善でもあり悪でもある不可解さ、心に美醜が混在する点こそが、リアルな人間らしさであるように思うのだ(そして『サウンズ〜』の人々がこのように見えるのは、私自身が心美しからぬ卑怯で愚かな人間だからだ。もちろん)。
◇ ◇ ◇
この作品で描かれているのは「沈黙」、語り合いの不在だ。
つばめと渉は、それぞれつぐみに対して「どうせわかってもらえない」「喋ったところで相手は変わらない」という諦めをもっている。…そうかもしれないが、内側に不満の言葉を抱えて黙っていた挙げ句に「そんなことになるくらいなら」、語り合ってみてもいいだろうに。…まぁそう理屈通りにいかないのが人間というもの。
集はつばめに対して「どんな本音であっても受け入れる」というが、自身は大事なことをつばめに伝えていない。自分は本音を語らない人に、誰が率先して本音を語るだろうか。
つぐみだけはよく喋り、周囲を動かそうとしているように見える。だが彼女こそ、自分と他人の中にある語られない言葉に対して、無自覚な人間ではないだろうか。
本当の意味で語り合いわかりあおうとすることは、大変なエネルギーを要する面倒な行為だ。日常的には、そのようなことをしないほうが「平穏」である。私も概ねそのようにして生きている。その意味で、私は『サウンズ〜』が描いているものに納得する思いがある。
◇ ◇ ◇
「何を言われても大丈夫ですから。あなたの本音なら。」といった集は、ラストでその言葉に伴う覚悟を問われることになる。
集とつばめは、互いに永遠に嘘を付き続けることでしか幸せになれないのかもしれない。4人は永遠に口をつぐみ嘘を黙認し続けることで、「平穏」を守るのかもしれない。
あるいは、誰か一人が口を開くことで、関係はドミノのように倒れていくのかもしれない。
または、集とつばめが互いに真実を語り受け入れあって、幸せを築くのかもしれない。
私は冒頭で「結末の先を読者に投げかけてくる作品」と書いた。しかし私自身は、この先の展開についてはさほど興味はない。恐らく脚本家もそうだろう。作中でわざわざ映画『カイロの紫のバラ』のエピソードを持ち出し、ヒロインの微笑について集に語らせていることに注目したい。
たぶん脚本家はこう言いたいのではないだろうか。
「人生がどのように揺れ動き破れようと、その先にまた喜びはある」と。
「時間軸を入れ換える」「同じ場面を視点を変えて描く」という脚本構成は弦巻啓太の十八番だが、人間のリアルを提示して見せている、という意味では、私が知る限りでは本作が最も成功しているのではないかと思う。
初演時の演出では、滑稽な強調が物語のトーンを乱しているように感じ、またその他の場面では間合いのだるさが気になった。今回の再演では、滑稽さは抑えられ、人間性を伝える演出になっていた。序盤からの姉妹の会話の間の合い方が気になったが、中盤にかけてはナチュラルな間のはずし方になっていた。つまり、たたみ掛けて喋る人物もスローに喋る人物も、素早く切り返すこともあれば、間を置いて返答することもある、というふうに。
疑問が残ったのは「視点」の演出。集の語りからの場面のみ、集視点でのシーンの解釈がはっきりとわかる(集が、物事をよい方向に解釈する、わりと脳天気な人間であるとわかる)ように演出されていた。とすると、他のシーンも各人物から見えている場面として演出されていたのだろう(私は脚本的な視点構成しか気が付いていなかった)。
だとすれば、つばめと渉のシーンはつばめ視点の演出ということ。だがあの場面の渉は、つばめの目に映った(つばめに都合のいい)渉というよりも、渉らしい渉だったように思う。どうだろうか。というかあのシーン、もうちょっと落ちざるを得ないオーラがほしい…。
2017年9月6日 20時〜 シアターZOOにて観劇