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[観劇雑感]『わたし -THE CASSETTE TAPE GIRLS DIARY-』を見て思い出した5冊

投稿者:島崎 町

 
intro『わたし -THE CASSETTE TAPE GIRLS DIARY-』を観劇してから5冊に触れるもよし。5冊のどれかを知っていて(興味があって)、劇を観ようと思ってもよし、という企画です。
 
 

『タイコたたきの夢』/作・画:ライナー・チムニク/パロル舎

ある日1人の男がタイコたたいて叫んだ「ゆこう どこかにあるはずだ もっとよいくに よいくらし!」。男はそのまま姿を消してしまうが、言葉は残った。その日から、1人また1人とタイコをたたく人が増え、町中にあふれる。ついに彼らは、どこかにあるよい暮らしを求めて町を出る。道中、タイコたたきの数はどんどん増えて巨大な群れとなり、ついには……。

introの意欲作『わたし』は、「わたし」という(おそらく)1人の女の子を32人が同時に演じる。行列となり群れとなり、あるいはちりぢりにカオス状態になる。そんな姿を見て僕はまっさきに『タイコたたきの夢』を思い出した。絵本と短いお話の中間みたいな作品で、チムニクが描いた膨大な数のタイコたたきの群れは迫力がある。
 
 
『百年の孤独』/G・ガルシア=マルケス/新潮社

『わたし』は様々な役者が「わたし」を演じ、どの「わたし」も「わたし」なのだけど、違う役者が同じ「わたし」を演じたりするので、違いが生まれる。その誤差が、幾重にも塗り重ねられた油絵のように多層的な「わたし」像を描きだす。

思い出したのは『百年の孤独』。南米のマコンドという村の百年間の歴史で、村をおさめる一族の長が、初代はホセ・アルカディオ・ブエンディア、その子がホセ・アルカディオ、さらにその子がアルカディオで、そのまた子がホセ・アルカディオ・セグンド……という風に意図的に同じような名でつづられ、壮大なマジックリアリズム世界の中で人の境目がなくなり、まるで同一人物であるかのように錯覚しはじめる。村と人と歴史がごたまぜに混在して1つの物語となる大傑作。
 
 
『顔をなくした女 <わたし>探しの精神病理』/大平健/岩波現代文庫

『わたし』は「わたし」とはなにかを描いた劇とも言える。そこで思い出すのが、『顔をなくした女』。精神科医がつづる実際の患者の症例集で、様々な患者が彼のもとにやって来る。表題となっている、自分の顔をなくしてしまった女性や、多重人格の患者、高名な宗教家の生まれ変わりという人物や、分裂症のような男性……。読んでいると、どの人も、自分の気持ちや心、精神を、自分の中になんとかとどめておきたいような、そんな風に見える。このままだと「わたし」が「わたし」の外に行ってしまうような、そんな感じだ。
 
 
『ファイト・クラブ』/チャック・パラニューク/ハヤカワ文庫

『わたし』で僕が一番面白かったのは、数十人が1人の体の各部位・器官となる場面。「わたし」がお腹をおさえ痛がるが、数十人たちは全然平気。「わたし」は大丈夫、と言っている。しかし気がつけば1人舞台に倒れている「わたし」がいた。その部位こそが痛みの原因だったのだ。わかりやすくて面白い。こういうわかりやすさでどんどん描いてもよかったのでは?(と思うけど、introの作風とは違うのだろう)

思い出したのは、『ファイト・クラブ』で主人公が家の地下で見つけた本。それは体の各部位の1人称小説で、「わたしはジャックの脳の延髄です。心臓、血液、呼吸をつかさどってます」「わたしはジルの乳首です」などと書かれてる。好きな映画の奇妙な一場面(ここでは原作小説をあげておきます)。
 
 
『ロコス亭(奇人たちの情景)』/フェリペ・アルファウ/創元ライブラリ

『わたし』の原案となった太宰治の『女生徒』は、1人の女生徒の内面を自由奔放かつ繊細に描いた短編だ。思考があっちこっちに行っても読者がついていけるのは、女生徒の内面から絶対に逸脱しないことと、主人公の女生徒自身に魅力があって、読者は早い段階でそこをとっかかりにできるからだ。

『わたし』は大勢の「わたし」が1人の「わたし」を構成してるがために、「わたし」個人としての像が見えにくい。もしかしたら明確なセンターとして、固定された「わたし」を置いてもいいのではないかと思った(それは特に序盤。中盤以降は固定された「わたし」が出てくるし、終盤の「わたし」は、演じたのしろゆう子の力もありグッと引きこまれた)。

この感覚は、『ロコス亭』を読んだときに似ていた。『ロコス亭』は変わった本で、1話目に出てきた人が次の話では同じ名前なのに別の人間なのだ。よく言えばスターシステムで、手塚治虫のマンガで同じキャラがほかの作品で別のキャラとして出てくるみたいな(鼻の長いキャラとかサングラスのあいつとかね)。しかし手塚マンガは絵で直感的にわかるし、なにより主役級じゃない。正直『ロコス亭』を読んで僕は混乱して面白がれなかった苦い思い出がある。

『わたし』はストーリーがほぼなくて(あるのだろうけど、ちゃんと明確にわからせようとしてない)、筋を追えばそれで面白さの何割かは保証されるという作品じゃない。だとしたらもっと導入で引きこむ工夫があってもいいのではないかと僕は思った。

『わたし』は大変な意欲作でかなり楽しめる部分もあったので、また再演の機会もあると思う。さらによいものになることを願いつつ、以上5冊、観劇のおともに。
 
 
2017年8月16日(水)19時30分〜20時50分観劇(初日)。コンカリーニョ。

[観劇雑感]『あっちこっち佐藤さん』を見て思い出した5冊

投稿者:島崎 町

 
イレブンナイン『あっちこっち佐藤さん』を観劇してから5冊に触れるもよし、5冊のどれかを知っていて(興味があって)、劇を観ようと思ってもよし、という企画です。
 
 

『リアル鬼ごっこ』/山田悠介/幻冬舎文庫

登場人物全員が佐藤という名字の『あっちこっち佐藤さん』。まず思い出すのが、全国の佐藤姓を殺せという命令が下った世界で、主人公の佐藤翼が妹を助けるために奮闘する小説『リアル鬼ごっこ』。ところが僕はこの本読んでません……。佐藤さんばかりという舞台なので、やっぱりどうしてもこの小説を思い出したので。
 
 
『火焔太鼓』(『古典落語 志ん生集』内に収録)/古今亭志ん生/ちくま文庫

『佐藤さん』は原作があって、アメリカの喜劇作家レイ・クーニーの『Run for Your Wife』。原作もかなり笑えるらしいが、それにしても『佐藤さん』の笑いの量は尋常じゃない。笑える原作にさらに笑いをたして、とんでもない傑作にしてしまったということで思い出すのは、古今亭志ん生の十八番『火焔太鼓』(かえんだいこ)。

志ん生自身が「クスグリを取り去ると噺がなくなる」と言うほどに大量の笑いを足して、地味で誰もやらなかった噺を落語界有数の人気噺にまでしてしまった(検索すればすぐ聞けますのでぜひ)。
 
 
『マカロニほうれん荘』/鴨川つばめ/秋田文庫

僕は『佐藤さん』を観終わったあと、どっと疲れ、めまいがし、頭が痛くなった。それくらい密度の濃い圧倒的な2時間だった。笑いが尋常じゃなく多いことは前にも書いたが、ホント、ここで一回場を冷ましてから笑いを入れた方がいいのでは? というところでも容赦なく笑いをぶちこみつづけ、引くことは一切しない。

これってなにに似てるんだろう? と思ったとき、古くて申し訳ないが昭和の傑作ギャグマンガ『マカロニほうれん荘』を思い出した。狂気としかいいようのないナンセンスで不条理な笑いの連続で、読むものを疲れさせ頭痛を起こさせる。笑いの種類は違えども『佐藤さん』もその領域に達していた。
 
 
『隣の男の子』(『南から来た男 ホラー短編集2』内に収録)/エレン・エマーソン・ホワイト/岩波少年文庫

『佐藤さん』の主人公・佐藤ヒロシは2人の妻を持つ男だった。どちらの妻にもそのことを隠し、大してウソがうまいわけでもないのにその状態をなんとか言いつくろおうとして、どんどん事態が悪化していく。明らかにバレるであろうウソを、協力者の佐藤タロウとともにつたない力業の語り(騙り)で推し進めていく2時間だった。

僕が思い出した『隣の男の子』もまた語り(騙り)の小説だ。アイスクリーム屋でバイトをしてる女の子・ドロシーは、親友のジルの家で一緒にテレビ番組を観る約束をしているのだけど、閉店間際、昔ちょっとデートしたことのある少年マットがおかしな目でやって来て、金を出せと銃で脅す。ドロシーは助かるために、彼の興味を引きそうな殺人の話を必死に考えしゃべりはじめる……。

親友のジルは出番は少ないが、ドロシーとジルの女の子2人に、マットという男子1人という構図が『佐藤さん』と結びついた。それだけじゃない、最後まで読んでもらえば、僕がなぜこの小説を思い出したのかもわかったもらえるはずだ。
 
 
『向田邦子シナリオ集Ⅱ 阿修羅のごとく』/向田邦子/岩波現代文庫

※これ以降、気をつけて書きますがネタバレっぽくなると思うので、『佐藤さん』を観てない人は読まないでください。

さて『佐藤さん』を観た人、オチはどう思っただろうか。笑いの作品だし、笑えて楽しい気持ちになればいいと思うのだけど、僕はなっとくいかなかった。その不満を埋めるために、僕は心の中で『阿修羅のごとく』や『思い出トランプ』などの向田邦子作品を思い出してしまった。

つまり『佐藤さん』からは妻側の気持ちが伝わらないので、向田作品で描かれる女の心情や揺れ動き(あるいは動じなさ)、さらに勘の良さやそこから生まれる怖さみたいなものを補充して、あの2人にはそういう思いやもろもろの出来事があってラストにいたっていると思いこむことで、僕は『佐藤さん』を無理矢理完成させたのだと思う。

でないと腑に落ちないし、もしかしたら観客は、ラストは考えさせられたねとか、~は怖いね、みたいに言うかもしれないが、僕は全然怖くないし考えさせられもしない。ラストに向田作品の怖さをつけたしてようやく成立するし、バランスがとれるような気がした。(ちなみに『佐藤さん』に出てきた沢田研二好きのおばあちゃんは、向田邦子脚本の『寺内貫太郎一家』からのオマージュ、というかモロそのままなので、5冊目に向田作品を持ってくる意味もあるということで)

以上5冊、観劇のおともに。
 
 
2017年8月12日(土)18時00分~20時00分観劇(初日)。かでる2・7。

[観劇雑感]『Princess Fighter』を見て思い出した5冊

投稿者:島崎 町

 
もえぎ色『Princess Fighter』を観劇してから5冊に触れるもよし、5冊のどれかを知っていて(興味があって)、劇を観ようと思ってもよし、という企画です。
 
 
『トゥルーデおばさん グリムのような物語』/諸星大二郎/朝日新聞出版
 
『Princess~』は、白雪姫やシンデレラなど、童話のお姫様たちが何人も出てくる。思い出したのが、『暗黒神話』や『妖怪ハンター』などのマンガで知られる天才・諸星大二郎が童話をアレンジしたらどうなるか、といった趣旨の短編集『グリムのような物語』シリーズだ。

『トゥルーデおばさん』『スノウホワイト』『瓜子姫の夜・シンデレラの朝』と3冊あって、美女と野獣、ラプンツェル、白雪姫など有名作品を諸星大二郎らしい、まがまがしいものを生手でつかんでしまった感触で描く。これら諸星童話集も『Princess~』もそうだけど、ユーモアが大事な要素で、暗くならずあっけらかんと観られるのがよかったのかもしれない。
 
 
『不思議の国のアリス』/ルイス・キャロル/新潮文庫
 
いわずもがなの名作を紹介するのははばかられるが、夢が関連してくる作品に触れると思い出してしまう。『Princess~』でも終盤、夢のシーンが重要になってきて、おっ、と思ったけど意外とあっさりいってしまったので、作ってる側にはそんなに思い入れはないのかもしれない。
 
 
『笑う月』(『笑う月』内に収録)/安部公房/新潮文庫
 
夢がらみでもう1つ。短編集の中の、安部公房が繰り返し見た夢について書いた表題作。そのイメージが鮮烈。直径1メートル半ほどのオレンジ色の満月に追いかけられる夢だ。その月は耳の後ろまで届きそうな唇で笑っている。安部公房は30年にわたってこの夢を見たという。チェシャ猫を思い出す月の姿だし、この短編集には『アリスのカメラ』というアリス論めいた短文も載っている。
 
 
『王妃、小人、土牢』(『三つの小さな王国』内に収録)/スティーヴン・ミルハウザー/白水社
 
3つの中編が収められているミルハウザーの秀作。2本目の『王妃~』は変わった小説で、「土牢」「城」「王妃の物語」「二つの階段」と数行ごとに語られるものが変わっていく。「土牢」はある城の土牢について細かく書かれ、6行後には「城」というタイトルになり今度は城について12行描写される。読んでいくとある王国にまつわる悲劇として読めるのだけど、形式はまるで辞書のようだ。ある王国(物語)の細部が1つずつ辞書のように分かれていて、それらを1つまた1つと読み進めて行くとしだいに全体が浮かびあがってくる、そんな小説だ。まさにこれこそミルハウザーの魔術。

『Princess~』を観て思ったのは、いったいなにが浮かびあがってくるのだろう、ということだった。アリスも安部公房もミルハウザーも、独自の世界を立ちあがらせる。それがどんなに短い文章であろうとも。いっぽう2時間超をついやし『Princess~』はどうだったのか。これは今後の課題だと思う。
 
 
『人魚禁漁区』(『竜のかわいい七つの子』内に収録)/九井諒子/エンターブレイン
 
『Princess~』の鮮烈なイメージとして評価するのはやはり人魚だ。ゴロンと転がる存在感。途中で魚の下半身をやめてしまったのはもったいないけど(動きの制約ゆえだろうが)、記憶に残るビジュアルだった。

人魚の話も数あるけれど、『人魚禁漁区』を紹介したい。『ダンジョン飯』で一躍売れっ子となった九井諒子の初期傑作マンガ集の1本。人魚がわんさかいる港町、人魚の人権を守れ!という人権派(魚権派?)との対立もある。まるでクジラ漁を彷彿とさせる設定だけど、秀逸なのは人魚がかわいい女の子として、無垢な姿で描かれているところだ。

もちろん人魚のイメージからはずれてるわけじゃなから、あたり前の姿かもしれないが、そんな人魚が主人公の高校生の生活のすぐ横に存在している世界観がいい。夏の暑い日、彼は1匹の人魚と出逢い、水を入れた台車に乗せて坂の上の高校まで運ぶこととなる。運んだあとどうなるのか、はたして人魚の目的はなんだったのか……。

『ダンジョン飯』が売れるのはよくわかる(読んでないけど)。九井諒子のビジュアル切り取り力。長い黒髪の人魚はなぜか白いワイシャツを着て、白い日傘を差し、無垢な瞳で汗だくで台車を押す高校生を見つめるのだ。
 
 
2017年8月5日(土)13時00分~15時15分観劇(初日)。コンカリーニョ。

[観劇雑感]『extreme+logic(S)』を見て思い出した5冊

投稿者:島崎 町

観劇してから5冊に触れるもよし、5冊のどれかを知っていて(あるいは興味があって)なので劇を観ようと思いたってもよし、そんな5冊の紹介です。
 
 
『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』(『藤子・F・不二雄 SF短編PERFECT版』内に収録)/藤子・F・不二雄/小学館
 
パインソー『extreme+logic(S)』はヒーローたちの物語だ。人間の力を遙かに超えて地球と人類を守る存在。その巨大な力の制御や暴走なども描かれる。例えば主人公のオオツキは、力を制御できずに人をあやめた過去を持つ。感情にまかせて力を少し、入れたがために……。

圧倒的な力を個人(ヒーロー)が背負ってしまう悲劇的側面。僕は藤子・F・不二雄のSF短編を思い出した。平凡で正義感のあるサラリーマン句楽兼人(くらくけんと)はある日突然なんの前触れもなく怪力、飛行、透視などの力を手に入れ、ウルトラ・スーパー・デラックスマンとなる。彼は犯罪者や財政界の黒幕などを正義感で退治していくが、しだいに私刑という性格を帯び始める。

「わるいやつはようしゃしないんだ 虫のいどころによってはやりすぎることもたまにはな」と彼自身が言うように、かっぱらいをひきちぎり、血みどろにして殺したりもする。そんな彼を止めるべく、警察、自衛隊が攻撃するが、もちろんヒーローにかなうわけもない。いまの彼は国家が土下座してなんとか落ち着いた日々を送ってもらっている腫れ物のような存在なのだ。ウルトラ・スーパー・デラックスマンは言う。「こんな気持ちってわかるか。ひとりで車にのってんだ ブレーキのない車に」ゾッとするセリフだ。
 
 
『top10』/ライター:アラン・ムーア/ヴィレッジブックス
 
『extreme〜』の主要な登場人物はヒーローたちだ。『ウォッチメン』『V フォーベンデッタ』を世に送り出した奇才アラン・ムーアが書いたアメコミ『TOP10』は、住人のすべてがスーパーパワーを持つ超人という奇抜な設定だ。驚異的な能力を持つがゆえの魅力、あるいは苦悩が描かれているし、なにより登場人物が個性豊かで楽しく読める。それに、単独ではあまり面白みがないようなキャラも、誰かと絡むととたんに魅力的になるというのも、なんだか『extreme〜』に似てるような気がする。
 
 
『寒い国から帰ってきたスパイ』/ジョン・ル・カレ/ハヤカワ文庫
 
しかし『extreme〜』は単なる明るいヒーローものではない。中盤以降、悲劇性がドライブしていく(僕が7月31日の回に観た「生きたヒーロー篇」はそうだった)。そこで必然的に思い出すのは、大きな力の前に個人の尊前や命が失われていく、踏みにじられていくというテーマで書いているスパイ小説の巨匠ジョン・ル・カレだ。今回はその中でも格段に読みやすく面白く、入門編として最適かつ『extreme〜』と同じく男女の悲劇的物語というべき『寒い国から帰ってきたスパイ』をオススメしたい。新たな任務を命令され、スパイ活動を再開する男とそこで出会った女。2人の思いは、国家という巨大組織の前には弱い力でしかない。
 
 
『切断』/黒川博行/創元推理文庫
 
さきほど、僕が観たのは「生きたヒーロー篇」だと書いた。『extreme〜』はマルチエンディング方式で、事前に3つの紙を渡され(〜篇みたいな漠然としたものしか書いてない)、後半? 終盤?のストーリーを投票で決めていく。しかし僕が観たものはとても面白く、むしろこれだけで全然いいのでは? という出来だった(僕がマルチエンディング方式をあまり良く思わないせいもあるけど)。

そこで思い出したのが、直木賞作家・黒川博行の『切断』だ。これは人体の1カ所を切断された連続殺人とその真相の話だが、単行本のラストと文庫本では最後の最後が違うのだ。作者があとがきに書いているが、単行本を読んだ知人の意見を取り入れ、ラストを変えたらしい。しかし文庫版の解説には単行本のときのラストがどうであったかも書かれている。それを読んだ僕は、絶対変える前のラストの方がよかったと思った。変更なんて余計なことだ。自分の信じた物語を書けばいい。『切断』も『extreme〜』もそう思う。
 
 
『リサ・ステッグマイヤーのグローバルキッズを育てる! 』/リサ・ステッグマイヤー/小学館
 
最後にいきなりこの本だけど、劇本編を観た人にだけわかるおまけ。まあ、少しは遊びの要素も入れないとね。というわけで『extreme+logic(S)』を見て思い出した5冊でした。5冊から劇に興味を持つもよし、劇から5冊に入るもよし。
 
 
2017年7月31日(月)19時30分〜21時35分観劇(3日目)。BLOCH。

[観劇雑感]『忘れたいのに思い出せない』を見て思い出した5冊

投稿者:島崎 町

札幌演劇シーズン2017夏の第1弾は、yhs『忘れたいのに思い出せない』。寝たきりの老女センリを文字通り中心にして、その周囲で苦しみ、悩み、もがき(そして喜びもある)人々の物語。

本編の感想は演劇シーズンオフィシャルサイトの「ゲキカン!」コーナーに書くとして、ここでは観劇して思い出し想起した、関連する作品(小説、映画、マンガ、音楽などなど)を紹介していきます。

 
『皺』(しわ)/パコ・ルカ/小学館集英社プロダクション

スペインのマンガ家パコ・ルカが書いた『皺』(しわ)は、日本で出た初めてのスペインマンガ(出版はフランス)。バリバリの銀行員だったエミリオは歳をとり老人ホームに入れられる。そこで出会う人々との交流。しかしアルツハイマー病である彼の認知能力は、日を追うごとに悪くなり……。

『忘れたいのに~』は、認知症の人が持つ、失うことのない尊厳をたしかに描いている。だからこそセンリには神々しくすら見える瞬間がある。『皺』もそうだ。アルツハイマーになったエミリオや、同じく老人ホームに住む人たちが、どんなにちゃんとできなくなっても、彼ら彼女らには尊厳があり、人間性があり、それらは守られるべきだし、僕たちはそこに気がつくべきだと教えてくれる。そんな人たちから、いろんなことが1つまた1つとなくなっていくのが悲しいのだけど。

 
『老人ホーム』/B・S・ジョンソン/東京創元社

この小説は劇薬だ。8人の老人たちと1人の寮母の内面が、それぞれの章で描かれる。扉にCQ値という各人の認知能力が示されていて、数値が10の人は比較的しっかしりとした文章でいまなにが行われているかがわかっている。しかし0になるとページのほとんどは空白で「種子」「結實」「輝ける天」「天つ日」などの単語が脈略もなく点々とあるだけになる。その空白が恐ろしい。認知能力を残酷なまでに表現した本で、気分を害する箇所もあるかもしれない。作者のB・S・ジョンソンはこのような奇想の小説をいくつも書いたが、自身の認知能力が衰える前に、40歳で自殺した。

 
『ストーナー』/ジョン・ウィリアムズ/作品社

『忘れたいのに~』は1人の平凡な女性の、終盤の人生記としても観ることができる。思い出したのは『ストーナー』という小説だ。第1回日本翻訳大賞を受賞したこの作品は、ストーナーという平凡な男の人生記であるにもかかわらず、並のエンターテイメント作品を凌駕する感動があった。どんな人間にもドラマはあり、生きる喜びがあるということだ。

 
『田辺のつる』(『絶対安全剃刀』内に収録)/高野文子/白泉社

『忘れたいのに~』のセンリは老人であると同時に幼子のようでもあった。『田辺のつる』は高野文子初期傑作選『絶対安全剃刀』内で異様な輝きを放つ大傑作短編マンガだ。おかっぱの少女「つる」さんは、人形を貸してもらえないと「けーち るりちゃんすぐおこるのね わたしなんにもしてないのに」とつぶやく。無邪気なかわいらしい姿だ。しかし読者は知っている、彼女は本当は認知症をわずらった老女なのだ。しかし絵柄はかわいい少女(幼女)として描かれている。老女と少女の無垢さをイコールにしてゴロリと描き出す切れ味は本のタイトルどおり「剃刀」で、読者は絶対に安全なんかじゃない。そして無邪気に家の中を徘徊し、家族にうとまれながら生きる「つる」さんを見るにつけ、僕は目の奥がジンと熱くなるのだ。

 
『室温』/ニコルソン・ベイカー/白水社

yhs南参は自身の祖母の認知症と、同時期に出産を控えた妻のお腹を見て『忘れたいのに~』を書いたという。この舞台がなぜか温かく感じるのは、祖母への優しさだけでなく、生まれてくる我が子への思いもあったのかもしれない。僕が思い出したのはニコルソン・ベイカーの小説『室温』で、寝入ろうとしている我が子を前にして父親が20分間に思い出した出来事が延々と描かれていく。様々なエピソードが数珠つなぎであるにもかかわらず面白く読める理由は、回想の主である父親の、我が子への愛が物語の通底にあり、そこが温かく心地よいからなのではないかと、舞台を見て僕は思った。

 
以上5作品、『忘れたいのに思い出せない』観劇ののち、より作品を楽しむために読まれてもいいし、逆に5作のどれかを知っていて(あるいは興味を持って)、それとどこかしら関係あるなら面白そうだと観劇に行くのも一興です。演劇作品を単独で楽しむよりも、様々な周囲を巻き込んだ方が楽しめると思いますので、参考になれば幸い。
 
 
2017年7月22日(土)19時~20時50分観劇(初日)。コンカリーニョ。

【投稿まとめ】intro『わたし−THE CASSETTE TAPE GIRLS DIARY−』

■観劇レポート(感想)

  To Be Continued


■観劇雑感


【投稿まとめ】イレブンナイン『あっちこっち佐藤さん』

■観劇レポート(感想)

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■観劇雑感


【投稿まとめ】パインソー『extreme+logic(S)』

■観劇レポート(感想)

  To Be Continued


■観劇雑感


【投稿まとめ】yhs『忘れたいのに思い出せない』

■観劇レポート(感想)

  To Be Continued


■観劇雑感