「劇団竹竹 マクベス」の検索結果

字幕を見るのに目を離すのが惜しい 劇団竹竹『マクベス』

劇団竹竹「マクベス」をことにパトスにて。監獄島に続き、韓国語がわからないのが悔しかった公演第2号となりました。台詞が多く、何をどのような感情を込めて演じているのかを知るためには字幕を見る必要がああるが、演技から目を離したくない。字幕の場所を計算し、もっと後ろに座るべきでした。
オペレーションミスがあったのか、字幕が明らかに遅れたり、出なかったりする場面が何ヶ所かあり、けっこうなストレスでした。台詞が多くて大変なのは分かるけど、もう少し頑張って欲しかったところ。まあ、自分が韓国語を覚えればいい話ではあるのですが、語学力がないからなぁ。
学校の机と椅子みたいなものを自在に組み合わせ、その上で行われる肉体表現は、仮に台詞なしの劇であったとしても、一見の価値のあるもの。衣装も一部を除き、簡素なものにまとめ、体の動きを見せようとしているように感じました。床や体を使った効果音も素晴らしかった。

  • 2017/11/23 14:00
  • パトス
  • 約1時間35分

苛烈な…、運命? 劇団竹竹『マクベス』

過去に観た『マクベス』は、オペラとバレエの作品のみ。だから比較はできないし、そもそも古典を語る知識は私にはない。

迫力ある作品だった。おどろおどろしい冒頭の立ち上がり、机や椅子を使った演出、鍛えられた俳優の身体、改変された設定の面白さ、といった素晴らしい点についてはやすみんしのぴーの感想に詳しい。「なるほどそのように表現するものか」と勉強になった。褒める点について付け加えることはない。

その他の点でいえば、マサコさん同様に中盤でうっとりしそうになったり、やすみん同様に白いマクベス夫人の登場と不思議なダンスに驚いたりした。ダンスに限っていえば、私はやはりダンサーの身体でピシッと表現されるほうが好きだ(演出家は俳優の身体で表現するこを重視したそうだ)。
…さて、それ以外のこととしては。

いい舞台を観た、という充実感があった。TGRで上演された作品でいえば2014年『アイランド』(韓国)、2015年『素晴らしい未来』(ロシア)のような。しかしそれらを観たときと同様の「うーむ、わからん」という気持ちもあった(前2作ほどではないが)。いや、物語がどう展開したかはよくわかった。わからなかったのは「演出家はどのような解釈を提示しているのか」という部分。最前列は字幕が見辛い、重要なラストの部分で字幕のタイミングがずれて素早く消えていった、ということもあるかもしれない。字幕とシーンの両方を追っていたので双方から重要なものを受け取りそびれたのかもしれない。

マクベスもマクベス夫人もその他の登場人物も(三人の魔女に替わる地霊めいたものも)、常に苛烈だった。迷うときも怯えるときも、ラストシーンでも。韓国のお国柄だろうか? 2014年上演の『アイランド』もそうだった(2015年に観たときは情感を感じたが)。それとも、人間の心情ではなく運命というものを見せようというときには、同化作用を避けてこのように演出され演じられるものなのだろうか。ああ、ラストの、永遠に未完の人間と運命と、についての字幕を追い切れなかったことが悔やまれる。

目を潰されたマクベスに私はオイディプスを連想したのだけど(今思えばあれは自分でえぐるのだった)、すぐに「いや、シェイクスピアだしリア王でしょ」と訂正された。目をえぐられて心の目が見える、ということか。それとも恨みの深さの現れか。

マクベス夫人の妊娠には、2014年のTGRで上演された劇団可変『王女メディア- 無惨なメディアの詩』 (韓国)を思い出していた。妊ることがテーマになっていた作品だ。韓国では今の日本以上に、「家の子を産む・血筋を残す」ということが重要なのだろうか。だからこそ流産(死産?)も天罰(あるいは過酷な運命)の一つとして加えられたのだろうか。
 
 
2017年11月22日19:00 パトスにて観劇

余計な肉がない 劇団竹竹『マクベス』

タイトルの「肉」は、「贅肉」のこと。役者の半裸、女性のぴしっと締まった背中のライン…。韓国の役者って体を鍛えているな、と再認識した。それと比べて、札幌は(ry

私が観た「マクベス」は「NINAGAWAマクベス」のため、どうも比較ができないのだが、本作は原作の持つおどろおどろしさがじわじわと立ち上がってくるかのよう。入場時にチラシをもらえなかったため、何をモチーフにしたセットなのか、演出家の意図は何だったのかなど、情報ゼロの状態である意味素直に観たからだろうか。やすみん姐さんが書いていたように、原作にない場面には「はて?」と思ったけれど、エントリーしていたら「大賞」だったに違いない。

ただ、さまざまな工夫が施されてはいるが、ほの暗い場面が続くため、中盤くらいまで睡魔との戦いが続いてしまった。

そういえば、2015年にフェスティバルトーキョーで日韓共同制作で、シェイクスピア「テンペスト」を原作とした舞台「颱風奇譚」(多田淳之介演出)を観た(とても魅力的な作品だった)。シェイクスピアと韓国の演劇って、何か親和性があるのかな?

 

11月23日 ターミナルプラザことにパトス

秀逸:劇団竹竹『マクベス』

竹竹と書いてチュクチュク。竹の硬さを思うと何だか合わない音のように思われる。タケノコがニョキニョキ、チュクチュク(すくすく)伸びていく感じならまあ納得かなあ。と劇団名を見ていた。演出家のキム・ナギョン氏と8名の俳優。うち「イさん」が4名いる!さて、その芝居は、大地に張られた根、凛としてまっすぐに立ち、風にさやさやと揺れる葉、を感じさせる、まさに竹。力強く清涼感ある熱演であった。詩と身体表現を備えた本格的な演劇だった。

学校の教室のような椅子と机。屠殺場の肉吊しをイメージしたという長い金属棒。それぞれの小道具をうまく使っていた。ロウソクも効果的。始まりに組まれる椅子のオブジェは、一脚の椅子の上に広がるように椅子が積み重ねられ、不安定極まりない。それが、マクベスの砂上の楼閣、不安まみれの野望を表現しているようで面白い。

マクベスといえば、血生臭く、色なら血の色である赤、のイメージがある。ところが赤が出てこない。本作品の舞台や衣装は、黒や茶色の地味な色でまとめられ、透明な水や黒い影で、血を表現し、赤を想像させた。実にスタイリッシュ。俳優陣もしっかりと安定した演技だった。爪や指先で床をカリカリ、コツコツを叩いて音を出したり、膝や胸を叩いて身体表現したりと、飽きさせない演出だった。

ただ、不可解だったのは、マクベス夫人が突如白いドレスで登場したかと思うと、妙に明るい音楽が流れ、後ろで数人が、エグザイル、いや、千手観音の舞踏のようなパフォーマンスを見せた場面だ。おどろおどろした殺人と苦悩の雰囲気からワンシーンだけ一転した。何だったんだ、と思う間に本筋に戻ったように思う。そもそも、マクベス夫人が妊娠していたり流産したり、という原作にない状況を加えたのはなぜか。これは、あの夫婦に子供がいたら状況が変わっていたか、という面白い想像を搔き立てる。

終盤、マクベスをスパッと殺さず、目を潰して荒野に放り出す、のは「リア王」のグロスターを、不具者のふりをして復讐の機会を待つマクダフは、同じく「リア王」のエドガーを、それぞれ思い起こさせる。キャラクターに関係性はないが、このシナリオは、マクダフがマクベスを戦いでスパッと殺すより、より深い復讐への怨念、恨を感じさせる。

「マクベス」の思い出。野心、殺人、罪悪感、政治、愛国、正義、裏切り、歴史の中の人間のちっぽけさ、家族の悲劇、復讐、超自然、魔女・・ シェークスピアの「マクベス」に描かれるものは深く多彩だ。昔見た本家イギリスのロイヤル・シェークスピア・カンパニーやグローブ座の数々の作品。目玉を手のひらに持ってものを見る魔女とか、スーツを着てブランコに乗るマクベスとか。狂ったように嘆き悲しむマクダフにうんざりしたこともあった。日本語版では、蜷川マクベスは、誠実、壮大で面白かったし、大竹しのぶのレディマクベスが素晴らしかったのは周知の事実。野村萬斎も演じたが、終始堂々としたマクベスで、私は不覚にも寝落ちした。昨年は、新たにマイケル・ファスベンダー主演で映画もあった。古典だしヒットしなかったが、美しいスローモーションで描かれる戦いのシーンとリアルな王の殺人のシーンで、「戦争で敵兵をブッタ切る人間が、一人の人間を殺した罪深さに怯える、」という人の矛盾と、良心とは何に対して抱くのか、といった人間の真実に迫った。個人的には最も感動したのは、2015年に来日したロイヤルオペラのマクベスだ。音楽が情感に訴えるから、マクダフの歌うアリア、「ああ、父の手は」に泣けた、泣けた。美しい演出だった。

さて、この劇団は日韓劇場祭交流事業で札幌劇場祭TGRに招待されたとのこと。交流事業というからには、次は札幌の劇団がソウルの劇場祭に登場することになるのだろう。エラいもん呼びましたねえ。チュクチュクがこんなに素晴らしい作品を披露したので、ハードルはとても高い。さて、どの劇団が行く?

 

2017年11月22日19:00 パトスにて観劇

アジアのマクベス、降臨す 劇団竹竹『マクベス』

素晴らしい!その一言です。言葉にできませんでした。3年前の『アイランド』以来でしょうか、思いっきり、根こそぎ劇的世界にもっていかれました。2006年から続く日韓劇場祭交流事業で、韓国小劇場協会の推薦でTGRゲストとして招聘された劇団竹竹(チュクチュク)の『マクベス』。もう圧巻でした。残念ながら大賞作品としてエントリーしていないのですが、個人的には、文句なく大賞、そして、マクベス将軍を演じたソン・ホンイル、マクベス夫人のイ・ジャギョン(パーフェクト!)の2人に俳優賞をあげたいと思いました。チュクチュクを主宰するキム・ナギョンは、数多の演出家で数え切れないほど舞台化されているシェイクスピアのマクベスを、素晴らしい解釈で脚色してみせ、独創性とインスピレーション溢れる演出で、マクベスの野望と破滅をパトスの小空間に降臨させました。

マクベスの名を呼びながらロウソクの灯りで不吉なもののけたちが登場する冒頭からノックアウト。ボロ切れで目隠しされ拘束されたマクベスが、舞台に引きずり出されます。お前たちは誰だ、ここは何処だとかろうじて訊ねるマクベス。もののけの1人が、ズルズルと目隠しを外すところで最初の溶暗。たまりません!権力の座を象徴する黒い椅子や、「荒野の屠殺場」をイメージして劇のためにつくったという大きな鉤のついた血の匂いの染み込んでいそうな鉄の引っ掻き棒。屠殺した肉を吊るしておく大鉤に見立てた装置も舞台にぶら下がっていて、色彩性を持たない削ぎ落とした舞台美術の能弁さにも敬服。椅子を舞台で滑らしたり、積み上げたり、ある時はヘルメットに、ある時には剣にと表象の使い方や、戦闘をイメージさせるチャコールグリーンのこれまたシンプルながら人物の心象に合わせて生き物のように変化する衣装も素晴らしいです。小道具の使い方や血を表すような水とチョーキングパウダーも独特の効果をあげていました。

なんといっても、韓国劇団を何度か見ていて思うのですが、役者の身体性が強靭です。それと韓国語の台詞。発音器官の型をとって創製されたハングルの響きや、母音の多くが口をあけて発音するため、台詞の音圧が舞台から強く感じられます。大阪の在日社会には葬儀の際に泣き女を雇う習慣もありましたが、強い感情を伝えるのにより向いているのかもしれません。韓国舞踊、あるいは伝統舞踊から持ってきたのではと思える、独特なリズムで身体を叩きながら芝居をするシーンがあります。アフタートークでキム監督は、「自分の世代の大学街には日本も含めて舞踏家やパフォーマーが集まる自由な空気があり、それを呼吸して育った。ダンサーがいればダンスに偏り、舞踏家が入れば舞踏に偏る。身体性もそうだが、役者同士が劇を理解しながら自分たちの表現として生まれたもの」と韓国文化にルーツは特にないと話していたのがとても印象的でした。また、舞台表現をつくるものとしてのイズムにも感銘を受けました。

故蜷川幸雄は、歌舞伎の世界観や様式美、モチーフを大胆に構築した舞台美術でシェイクスピア(松岡和子訳)を解釈して、かの蜷川マクベスを生み出し世界的評価を得ました。蜷川が歌舞伎であれば、キムのマクベスはアジアの土着性の中から現れたマクベスではないでしょうか。

ラストシーンに、砂漠の中の屠殺場というキムの劇的直感が見事に投射され、深い余韻を残しました。「私は耐えられると思ったのに」。奥深いですね。いつか、このようなシェイクスピア劇が札幌の演劇人たちの手で生み出されることを切に願って。

追伸

きょう14:00〜千穐楽です。ぜひにお出かけください。今年のこの1本に出会えると思います。字幕の出る位置が下手高めにありますので、芝居の臨場感は減じるかもしれませんが、後ろの席がいいかと思います。字幕出しの精度は上げてくれると思います。

11/22(水) 19:00  パトス

【投稿まとめ】2017年11月上演作品より

1作品に対し複数のレポート投稿があったものをご紹介します。

2018年4月1日作成。追加された投稿は後日、こちらに反映されます

2017年11月

■トランク機械シアター『ねじまきロボットα〜ともだちのこえ〜』 1日(水)~5日(月)


■座・れら『アンネの日記』 2日(木)~5日(月)


■ぐりぐりグリム『おかしな森のヘンゼルとグレーテル』 3日(金)~5日(日)


■MAM『月ノツカイ』 7日(火)~10日(金)


■ NEXTAGE『ビバーク!』 8日(木)~16日(木)


■イレブンナイン ミャゴラ『やんなるくらい自己嫌悪』 9日(木)~12日(日)


■劇団words of hearts『アドルフの主治医』 9日(木)~12日(日)


■マイペース『ばかもののすべて』 11日(土)~13日(月)


■ニッポンの河川『大地をつかむ両足と物語』 17日(金)~19日(日)


■さっぽろ学生演劇祭『ブルー!ロマンス・ブルー!』 17日(金)~19日(日)


■劇団コヨーテ『路上ヨリ愛ヲ込メテ』 18日(土)~21日(火)


■劇団竹竹『マクベス』 22日(水)


■札幌ハムプロジェクト『象に釘』 22日(水)~26日(日)


■きっとろんどん『ミーアキャットピープル』 23日(木祝)~26日(日)


■弦巻楽団 ♯28 1/2『リチャード三世』 24日(金)~26日(日)


■総合学園ヒューマンアカデミー札幌校パフォーミングアーツカレッジ『ロミオとジュリエット』 25日(土)~26日(日)


■yhs『白浪っ!』 29日(水)~12月3日(日)


 
 
11月〜12月に実施されたTGR2017参加作品のまとめ↓

【企画】札幌観劇人の語り場 2017年度「記憶に残った作品」

作品が舞台上で輝くのは、ほんのひととき。
けれど観た人の心に強く長く刻まれる光があります。
2017年度の観劇を振り返り、記憶に残った1〜3作品を選んで語ってもらいました。

 
 

うめの選んだ1作品

マームとジプシー『あっこのはなし』 2017年8月、札幌市教育文化会館

昨年度、〈記憶に残った演劇〉と言われてすぐに思いついたのは、マームとジプシー『あっこのはなし』。
初めて観るマームとジプシーということで、気持ちが高揚しながら観た事を差し引いても、とても記憶に残っている。なんであんなに印象的だったのか? それは多分、主人公と同じ30代の自分の環境とか心情にピタッと共感できる作品だったからだと思う。

10代の時に夢中になって読んだ本が、いま読み返すと(面白いけど)そんなに入り込めない…という事があるように、その年代だからこそ特にクル作品というのがあると思う。で、まさに30代の私にとって「あれ、これ自分のことじゃない?」と錯覚するくらい印象に残る話だった。同じ30代でも、結婚して家庭に入った人や、上昇志向の女性には共感できる部分が少ないかもしれない。でも、通過儀礼を経験せずに年中行事ばかり。ある意味平穏、悪く言えば停滞。そんな人達(自分も含めてね)には、特に響くものがある話だったように感じる。多分10代・20代の頃に観ていたら、なんかダラダラした話だなと感じて終わると思うけど(笑)。
40代になって観たときは、どう感じるかな。そうそう、こんな気持ちだった、と懐かしく思い出せる作品になっていれば幸いですが。
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九十八坊(orb)の選んだ3作品

1. きっとろんどん『発光体』 2017年4月、BLOCH

「オカルト系サイエンスフィクション風サイココメディ」 と銘打った今作は井上版『IT』とでも云おうか。期間中に観た若手オリジナル公演の中では出色の作品。SFやサスペンス映画等を下敷きにした精度の高いあて書きに、個性の強い所属役者とレギュラーに近い客演陣が応える。旧友の姿をした侵略者の不気味さを身体パフォーマンス(ダンス)だけで表現しきるリンノスケさんや、等身大の主役・山科さんのセリフのトーンコントロールに感心。落とし処(エンディング)のモノローグ(山科)がノスタルジックで記憶に残った。

2. 劇団fireworks『沙羅双樹の花の色』 2017年9月、コンカリーニョ

木曽義仲陣営を主役に、義経・弁慶・静御前を敵方に配した今作は予想を上回るエンタメ性の高い歴史ファンタジーだった。儚さとカタルシス。こういう作品を札幌発で魅せてくれるのはタニケンさんくらいだと思っていた。端役までキャスト皆がしっかりと人物を背負って立っているからこそ、魅力ある舞台となっていた。作・演の米沢さん独特のふんわりとした感性を作品にきちんと反映し、さらに自らが主役(巴御前)として体現。型通りではない殺陣も印象的。

3. 劇団coyote『路上ヨリ愛ヲ込メテ』 2017年11月、BLOCH

常に現在進行形で挑み続ける亀井さんの最新作。表現者として心身を研ぎ澄ませ、作風は一見and時代をも彷彿とさせるが決して懐古や停滞ではない。抜き身のナイフをかざすのではなく、熱情を湛えながらも穏やかな愛を語る幅も見せる。ヒロインの脇田さんが、脇田さんとして亀井脚本を体現する。ロードムービーのようなエンディングの余韻は映像作品制作を経ての進化か。広く高評価を得て演劇シーズンでの再演を果たした『愛の顛末 boys be Sid and Nancy』より僕の中では上。こちらが最新作なので当然かも知れないが、それは必ずしも容易なことではない。TGR札幌劇場祭に毎回真正面から挑んでくる亀井さんだが、今作がファイナルに残らなかったのが色々な意味でとても残念だった。

※「記憶に残った作品」3作。期間中に観た作品すべてに順位をつけたのではなく、直感的に選びました。どれもリアルタイムで感想を投稿できなかった作品ですが、こうして記録にも残せる機会を得たことに感謝します。

 

小針幸弘の選んだ3作品

1.遊戯祭17<谷川俊太郎と僕>『平木トメ子の秘密のかいかん』 2017年4月、コンカリーニョ

大人と子どもの配役を敢えて逆にしたように見えたこと。辛い現実から逃げて子どもに帰りたい大人と、背伸びして早く大人になりたい子どもというのを想像しました。そしてクライマックスでの安田さんと井上さんのやりとり。弱音をはく大人と、それを受け止め励ます子どもという、本来あるべきとされる姿とは逆転したような場面だけど、すごく心に響いた。前田透演出×米沢春花脚本。
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2.弦巻楽団『ナイトスイミング』 2017年7月、サンピアザ劇場

前回観た時は、その年にあったセウォル号事件を連想してしまったけど、今回はその時の対応が非難されていた朴槿恵大統領が罷免された年。まあ関係ないんだろうけど、妙なつながりだなと勝手に感じています。凍った時間、過去の仲間からの問いかけ、仲間の死とそれを忘れていく世間など色々と考えたくなる要素があり、終演後に何か話したくなるお芝居。
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3.イレブンナイン『サクラダファミリー』 2018年1月、コンカリーニョ

全体を通して何度観ても面白かった。笑いという意味でも、感動という意味でも。大和田さん・廣瀬さんのコンビの爆発力がすごい。バイクに乗った感じで「兄の婚約者」に迫る場面では、二人の挨拶の異様さが効いていたのか、宮田さんのヘコヘコした感じの特に笑いを取りにいっているとは思えない挨拶がオチっぽく見えて、妙に面白く感じました。
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島崎町の選んだ3作品

1.イレブンナイン『あっちこっち佐藤さん』 2017年8月、かでる2・7

こんなに劇場が笑っている作品を観たことがない。すさまじい笑いの渦、大波。おぼれながら笑って楽しんでる感覚。はっきり言って異常なくらいだったと記憶している。役者・納谷真大の、エネルギー飽和状態の熱演もすごかった。
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2.トランク機械シアター『ねじまきロボットα~ともだちのこえ~』 2017年11月、こぐま座

子ども向け人形劇という枠におさまらない良作(そもそもそんな枠は不要だろう)。ファンタジーの物語に現代への批評もふくまれて、グサッと刺さった。1体1体の人形も個性的で、細部まで手がこみ、色彩もすばらしかった。
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3.余市紅志高校演劇部『おにぎり』 2018年1月、かでる2・7

4名という少ないキャスト、1時間という上演時間、なのに充実感があった。前半の笑いパート、後半のシリアスパートという構成もうまくさばけており、最後はしっかりテーマに落とした。主演の吉田侑樹(当時高校3年生)の演技も深く記憶に残った。
 

しのぴーの選んだ3作品

昨年度は、札幌演劇シーズン-2015冬-から引き続き「ゲキカン!」を担当させてもらい、また札幌劇場祭TGRでも一昨年に続いて大賞審査員をお引き受けしたこともあって、その他の観劇と合わせてかなりの数のお芝居を観た「豊作年」でした。個人的に印象に残った作品を3作品あげておきたいと思います。

1. 劇団竹竹(チュクチュク)『マクベス』 2017年11月、パトス

TGR2017で日韓演劇交流事業の一環としてソウルから来札した作品です。一昨年は、文化芸術都市として知られる光州から老舗劇団のカチノルが『お伽の棺』を上演し、TGR大賞作品賞を受賞しました。『マクベス』はTGR招待作品だったのですが、大賞にはエントリーしていませんでした。個人的には、エントリーしていたら、ぶっちぎりだっただろうと思います。個人的には2017年のナンバーワンでした。
数あるシェークスピア劇の中でも『マクベス』が一際魅力的な理由は、マクベス将軍が主君であるダンカン王を裏切ってキング・スレーヤー(王殺し)になったばかりか、猜疑心の余り親友であるバンクォーまで殺害してのけるのは、決してバーナムの森に棲む魔女たちの囁きに惑わされたわけでも、妻に唆されたからでもないということだと思います。マクベスは、手を血で汚すことを自ら選んだのです。そして選び取った運命に呪われて狂っていくさまが、悪しきものへ抗いようのない人間の本質的な脆さや弱さとして描かれることに劇的な醍醐味があるのでしょう。チュクチュクの『マクベス』は、マクベス将軍を演じたソン・ホンイル、マクベス夫人のイ・ジャギョンら俳優の優れた身体性が圧倒的でした。なにより、チュクチュクを主宰するキム・ナギョンの「これぞ演出!」という舞台を成立させているすべての要素への優れた解釈と極めて美しいプレゼンテーションで、キムのいう「荒野の屠殺場」で身を滅ぼすアジアのマクベスを提示して魅せました。一点、急ごしらえで用意したであろうパトスは、芝居のサイズに合っていなかったことが惜しまれました。ぜひ札幌の演劇人たちによって、このチュクチュク版『マクベス』が札幌で再演されることを強く希望したいと思います。
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2. マームとジプシー『ΛΛΛかえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと──』 2017年8月、札幌市教育文化会館

今一番演劇界で注目を集める劇作家・演出家の一人、藤田貴大が主宰するマームとジプシー。去年の札幌国際芸術祭特別企画として、ようやく彼らの結成10周年ツアーでの札幌初上演が実現しました。藤田の故郷、伊達市を想起させる海沿いの街に暮らす姉、弟、妹の物語。人物の出入りの時間の経過はあえて曖昧で、父の死を電話で知るとか、実家が区画整理でなくなっていたという「点」以外は、これといった筋らしい展開もありません。台詞に感情の抑揚や色をつけない分、役者の発する言葉には必然的ともいえる精緻さがあり、立ち位置やしゃべりだしの微かな身体の向きにいたるまでのディテールが非常にナラティブで、シンプルな美術装置とも相まって、家族にまつわる痛みや喪失という記憶の底を静かに揺さぶられました。
藤田は台詞を本として書かず、役者に口立てで言葉を伝えていく作業の中で、いろいろなクリエイティブが決まっていく独特の創作スタイルだそうです。演劇では再現性というものが一切ありません。そこに立ち会う観客が違うことを含め、作家も俳優も「永遠に再演する」ことを繰り返しているのです。藤田が「リフレイン」と呼ぶ、同じシークエンスを別の角度から映像的ともいえる手法で見せる演出術や、モノローグと台詞のやりとりがシームレスに混在していることも魅力的でした。
「(生まれた)家を出る、あるいはそこへ戻っていく」というのが、藤田の一つのモチーフなのでしょう。タイトルにある『ΛΛΛ』は、ラムダラムダラムダと読めますが、壊されてなくなってしまったという藤田の祖母の家の屋根を表している表象のようにも感じます。台詞というよりも「言葉」(多分、藤田は台詞とは言わないと思います)の持つ複雑な意味性へのフォーカスと、印象的な音楽、抽象性の高い美術、美しい衣装とが極めて独創的にシンクロする様は、舞台が総合芸術であることを久々に思い出させてくれました。
「敢えて札幌を避けていた」と話していた藤田。この公演を機会に、ぜひツアーに札幌を組み込んで欲しいと思いました。多分、藤田は自分が生み出す言葉だけを信じていて、俳優はそれを舞台化するための駒というか、言葉を発する生きたチューブのように考えているのでしょう。その極めて明快な「肥大した僕」が、なぜより大きな普遍にたどりつくのか、その作家性に強く魅かれました。
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3. proto Paspoor『ある映画の話』 2017年12月、シアターZOO

プロト・パスプア、と読むそうです。クラアク芸術堂を主宰する劇作家・演出家の小佐部明広のユニットです。クラアク芸術堂のホームページでは、「純文学と身体と声をキーワードに舞台表現の可能性を模索し追求する実験グループ」とあります。2016年末に解散した劇団アトリエ時代から、小佐部は札幌演劇界の中で独特の立ち位置と作風で評価されてきましたが、今やりたいことを純化したような作品でした。この札幌観劇人の語り場の感想でも書いたのですが、『ある映画の話』はフランソワ・トリュフォーの「ある映画の物語」を下敷きにした物語だろうと思います。「ある映画の物語」は、撮影現場で起こった話、起こらなかった話を監督自らが語るというヌーベルバーグ時代の名作です。台詞が徐々に熱量を帯びてうねっていくのが良かったのですが、敢えて失敗することを確かめるような挑戦的な演出が魅力的でした。正直興行的な成功は見込めない作品だと思います。でも、なかなか札幌演劇界には珍しいストレートな現代劇で、小佐部らしいダークワールドが最後は広がります。うまく理解できたとは言えないし、それを感想として言葉で書くことも難しいのですが、芝居としてとても感じたのです。作家が発見した新しい「足場」のようなものを。飽くなき挑戦心を観ることができたのは収穫でした。3作品のうち2作は道外勢の作品でしたが、道内勢を代表してこの1作を挙げておきたいと思います。
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中脇まりやの選んだ3作品

1. 近代文学演舞『地獄変』  2017年7月、観音寺

櫻井幸絵(劇団千年王國)と平原慎太郎(OrganWorks)の共同演出作品。既存の小説・お寺というシチュエーション・コンテンポラリーダンスという異例な組み合わせが想像以上のものを見せてくれた。夏の暑さも相まって、あそこに作り出された空間を今すぐにでも思い出すことができる。
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2. intro『わたし-THE CASSETTE TAPE GIRLS DIARY-』 2017年8月、コンカリーニョ

太宰治作品のオマージュだと知ってオリジナルを読んでみて、こんな作品が太宰にはあったのかと驚いたものだった。”わたし”の日々繰り返される日常。多面的な”わたし”に自分を重ねたりして観た。人数の多さが迫力を増していた。

3. ニッポンの河川 『大地をつかむ両足と物語』 2018年11月、コンカリーニョ

こんなミニマムな演劇があるのかと驚いた。観ていて非常にわくわくした。カセットテープの音質はあまり劇場では聴けない。カセットの入れ替えで床を滑るカセットテープの様さえ楽しかった。もう一度、今度は野外で見たい。

※昨年度はNIN企画の”靴”も忘れられない作品になった。
マームとジプシー『みえるわ』はあたらしい表現を”目撃”した気分になった。川上未映子さんの文学にも驚きがあった。ハムプロジェクト『象に釘』はとてもすきなお話だった。違うキャストでまた観たい。

 

マサコさんの選んだ3作品

道外、道内から1作品ずつ。公演名は二文字なのは偶然です。

●道外作品
東京デスロック『再生』 2017年9月~10月、横浜・STスポット

集団自殺のために集まった人々が、大音量で流れるJポップに合わせて歌い踊って倒れてゆく…のを、3回繰り返すだけの舞台。登場人物の背景やなぜ自殺を決心したのかは一つも語られないけれど、否応にも「生きていくよりも死んだ方がマシ」と突きつけられる。一方で、役者の体力とモチベーションがすごい。札幌の劇団でやれるのなら、年齢層を考えてyhsか、客演入れてクラアクかボイジャーかな。

●道内作品
BLOCH PRESENTS 2018『電王』 2018年2月、札幌・BLOCH

作演出の井上悠介(きっとろんどん)の将棋LOVEや、本作でやりたいことはよく分かった。が、「何も考えずに観てほしい」という部分では物足りない。そこに到達するには、実際の電王戦を模した戦いや人物の心の動きなど、もう少し丁寧に落とし込むのが必要なのでは。個人的には、井上くんは「ギャグとか言わせて笑いを取る」という本や演出は必要ないと思う。さらに個人的には、アウチとミツルギの名前は「逆転裁判」からなんだろうな、と嬉しくなった。

 

瞑想子の選んだ3作品

1. 横浜ボートシアター『にごりえ』  2017年9月、レッドベリースタジオ

語り作品だが朗読とは全く違う。一語一語に表情があり、艶があり、ドラマティック。語り手の吉岡紗矢は娘義太夫ほか日本伝統の語り芸を何年も修業したとのこと。全身から発せられているかのような声が、主語が曖昧かつ滔々とつながっていく樋口一葉の原文を語りわけ、黙読では掴みがたい情景情感を立ち上げていく。すごい芸を観た(聞いた)満足感。

2. ネビル・トランター『Mathilde(マチルダ)』 2017年7月、やまびこ座

等身大の人形を用い、人間軽視の介護施設運営と老いや障がいの惨めさ、寝たきりの老女の中に燃える命とその記憶にある生の美しさ哀しさ、死の救いとその他者にとっての軽さなどを描いた作品。優しい祝福として訪れる死神の表現に心が揺さぶられた。人間が演じることでは描き難い世界。上演時間は50分だが、長尺作品よりも強く印象に残る。やまびこ座海外特別公演作品。
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3. 劇団清水企画『昼間談義 公園の柵、ぷらぷらと、花粉症の鳥、』 2017年7月、シアターZOO

ポストドラマ演劇を初めてみたこともあって、鮮烈だった。たぶん戯曲を読んだだけでは掴めない抽象的・幻想的なイメージが立ち上がっていた。物語をはぐらかし裏切って展開する世界の面白さ、声のリズムとトーンの美しさが記憶に残る。
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※マームとジプシー 10th Anniversary Tour 札幌公演の4作品も、その圧倒的な世界観と重さとで記憶に残る。が、マーム作品としては、私の中では2014年に伊達市で上演された『ΛΛΛ〜』がNO.1だ。
札幌作品としては弦巻楽団 × 信山プロデュース『サウンズ・オブ・サイレンシーズ』も捨てがたかった。道外ツアー前の1回きりの札幌公演とあって、いい緊張感での上演だった。信山プロデューサーに感謝。

 

やすみんの選んだ3作品

1. シアターコクーン・オンレパートリー2017『欲望という名の電車』 2017年12月、シアターコクーン
理由ぐだぐだ長いので別途

2. マム&ジプシー  『ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと──────』  2017年8月、札幌教育文化会館

藤田貴大氏の詩の中にとぷんと浸って彷徨っているような素敵な時間。劇全体が詩のような、劇を通して詩を体感する新鮮な時間だった。記憶に残るのは、「そっか」という一言のセリフ。複雑な心情が、「そっか」に凝縮された。「そっか」は優しい。「そっか」は哀しい。「そっか」は・・・。泣けた。
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3. ニッポンの河川 『大地をつかむ両足と物語』 2017年11月、コンカリーニョ

「役者が照明も小道具も全部やります、全天候どこでも演ります」、というガッツが記憶に残ることは確か。しかしそれだけにあらず。一見ハチャメチャだが、実は文章力ある脚本の面白さと、ブレない俳優陣の集中力あればこその唸らせる内容。起業家精神あふれる劇団。楽しい驚きだった。
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【特別寄稿】ある視点 ー私的俳優論ー  寄稿者:しのぴー

僕は9年間、スペシャルドラマのプロデューサーをやっていたのですが、2つのキャスティングを手がけていました。一つは、ドラマそのものと言える脚本を書いてくれる作家です。全国放送される地方局がつくるドラマなので、もちろん視聴率は取らなければなりません。だから、作品至上主義の立場を僕はとりません。でも、視聴率をとるためのテクニックを持っているシナリオライターとは2回しか一緒に仕事をしませんでした。実際は同じ人に2年続けて書いてもらったので、一人としかおつきあいしていないことになります。

何の知識もなく「業務命令」でドラマプロデューサーを押し付けられた僕は、テレビドラマが好きじゃなかったこともあって、勉強のために単館系で監督の作家性の強い映画、それと商業演劇から小劇場の芝居まで本当によく観ました。東京出張が多くなったからです。札幌-東京を年間100回搭乗、つまり50往復した年もあって、今は取り壊されてないのですが青山一丁目の角にある小さなビジネスホテルを定宿にして、夜は下北沢、新宿あたりに出没して、映画はオールナイトで結局ホテルに朝帰りということもありました。つまり、ほとんど会社というか、家にいなかったのです。

そうして出会った演劇の劇作家に、自分の書いたへなちょこ企画と原案を読んでもらって、興味を持ってくれた方と一緒に本をつくりました。意気投合して、タイミングが合わなかった方も少なくありません。モダンスイマーズの蓬莱竜太、ONEOR8の田村孝裕、そして天才だと思った“劇団、本谷有希子”の本谷。劇作家・演出家と一緒に本をつくる作業はとても苦しくて、時間もかかるものでしたが、僕にとって劇的世界へ深く潜る力、台詞の奥深さや、役者眼を養う上で大きな糧となりました。

さて、いよいよもう一つのキャスティングです。僕たちのドラマの場合は、作家が決まって一緒にシナリオ・ハンティングが終わった段階で、お互いに主役と主役回りのキャストイメージを出し合いました。もちろん、俳優さんのスケジュールNGになることは仕方ないのですが、主役はじめアタマ4番手くらいは、2番手候補も含めお互いに見事に一致することに毎回驚きました。役者の持つ匂いというのでしょうか、存在感というのでしょうか、そういう嗅覚はドラマをつくる度に磨かれていったような気がします。作家と役者がキャスティングできたら、その作品の8割はもう出来たも同然です。演出家は、残る2割の仕事で作品を100%以上、150%にも、200%にも膨らませる責任があります。演出家は孤独だなぁといつも思っていました。

随分と前説が長くなりました。僕はお芝居を基本「役者押し」で観ています。もちろん作品世界や、その世界を生み出している台詞(つまり本です)、舞台美術や照明・音響などトータルで演出が成立していなくてはならないのはもちろんですが、役者がいないと結局芝居は始まりません。演劇とは台詞のことだと僕は信じて疑いません。

じゃあ、役者とはなんでしょうか。僕は身体性そのものだと思います。そして、その生身の躰を投げ出してどう舞台に台詞を積んでみせるかが役者の力量だと、これも信じて疑いません。身体性ってなんだ、といわれると説明しにくいのですが、舞台を一瞬にして支配してしまう才能のことだと言えばいいでしょうか。努力して研鑽して身に付くものもあるのかもしれませんが、僕は天性のもの、役者として舞台に上がる人は、大なり小なり天賦の才があると僕は思うのです。

例を挙げましょう。プロデューサーをやっている頃、同じ時期に松たか子と寺島しのぶの舞台を観る機会に恵まれました。当時、松はテレビでピカピカの売れっ子女優でしたが、寺島はどちらかというとテレビ向きではなく(実は、デビューは芸術祭参加のテレビドラマで、役所広司の相手役を全裸シーンもある体当たりで演じました。この作品はこの年の芸祭大賞を受賞しました)、女優としては地味な感じだったのです。ですが、舞台になると立場は真逆でした。寺島には、舞台に現れた瞬間に劇を支配してしまう天性の風圧がありました。道具も大きく、舞台上でとても見栄えします。これは彼女が出演する映画でも強く感じられます。極めて華があるのです。松は由緒ある正統派の女優ですが、寺島のような華は感じられませんでした。

よく「役を演じるときに、役になりきるとか役が下りてくる」などと言う人がいますが、僕はそのようには思いません。役者にとって一番大切なことは、役を演じることでも、役になりきることでもありません。本と演出家の求める以上の想像力で、おのれの台詞をひとつひとつ、爪痕のように刻み、舞台に積んでいって、劇的世界が指し示す大きな何かを観客に提示することだと思うのです。これが、役者にとっての身体性に他ならないと僕は思います。

「TGR札幌劇場祭に俳優賞を」との議論は、劇場連絡会の中では早くからあったようです。極めて狭い札幌演劇界隈の人間模様を「忖度」してなかなか踏み切れなかったのだと想像します。今年の俳優賞の新設は、2年目の大賞審査員を務めた僕にとっても大変喜ばしく、役者さんたちにとっても待ちに待った賞だったのではないでしょうか。

劇団創立20周年のおめでたい節目で大賞を勝ち取ったyhs『白浪っ!』は、実にあっぱれな作品でした。演劇祭でエンターテインメント作が大賞をとるのは本当に難しいと思うからです。僕は私事あって事前審査会に参加していないので詳しい状況やニュアンスは知る由もないのですが、もしかしたら優秀賞を受賞したトランク機械シアター『ねじまきロボットα〜ともだちのこえ〜』(作・演出:立川佳吾)、座・れら『アンネの日記』(脚本:ハケット夫妻、潤色・演出:鈴木喜三夫)と僅差だったかもしれません。また、招聘作の韓国・劇団竹竹の『マクベス』が大賞にエントリーしていたら、結果は違っていたかもしれません。
作・演出の南参は、かなり悩んだと思うのですが、自分の持ち札をすべてさらしてストレート勝負に出たことが良かったと思います。極めて高い演出力で奇想天外な物語を、個性的な俳優陣を得て、文字通り縦横無尽にかぶいて魅せてくれました。

初めての俳優賞を受賞したyhsのプレーヤー、櫻井保一は、振れ幅の大きな持ち味と、役者としての引き出しの多さで以前から注目してきたのですが、持てる身体性をいかんなく発揮して、新境地かもしれませんが、主役の重責を見事に果たしました。櫻井の『白浪っ!』だったと思います。

もう一人の俳優賞は、MAM『父と暮らせば』(原作:井上ひさし、演出:増澤ノゾム)でヒロイン、美津江を熱演した髙橋海妃が受賞しました。原爆投下後の広島を舞台にした、幻影である父親との2人芝居。増澤の演出が精緻で出色なのですが、応えた髙橋は見事でした。ストロークの長い芝居の端正な佇まいといい、父親(ベテランの松橋勝巳も好演)と言い争う葛藤が溢れ出る台詞術といい、長台詞を吐き切る力量と感情の露出を巧みにコントロールしながら、芝居という時間軸を生き、エンディングでは自らの魂の再生へ実に印象的で味わい深く両手を伸ばして魅せました。札幌ではなかなか見ない女優さんだと思っていたら、活動の拠点は東京だと聞いて、妙に納得しました。僕自身、櫻井と髙橋の2人をイチオシしたので、新設された俳優賞が2人の役者に贈られたことは審査員冥利に尽きる思いでした。

今年のTGR札幌劇場祭は、去年と比べて豊作だったと個人的には思います。俳優で言えば(順不同)、優秀賞を受賞したトランク機械シアター『ねじまきロボットα〜ともだちのこえ〜』の原田充子、座・れら『アンネの日記』の早弓結菜の素材感、信山E紘希のペーター。特別賞を受賞したMAM『月ノツカイ』の遠藤洋平の屈折感、本間健太の芝居巧者ぶりがとても印象に残りました。大賞作の『白浪っ!』では、客演の深浦佑太の人物の立ち方が凛としていましたし、月光グリーンのテツヤは、yhsの創立メンバーだとは知りませんでしたが、あのタッパ、異様なメヂカラ。大したものです。入賞はなりませんでしたが、イレブンナイン ミャゴラ『やんなるくらい自己嫌悪』(作:納谷真大、演出:明逸人)では、若手の成長ぶりも好感しました。

個人的には、とっても扱いづらい女優を観るのが大好きです。知り合いのドラマプロデューサーが言うには、「この世で一番嫌いなもの。一に女優、二に女優、三、四がなくて五が女優」だそうです。実に同感。実際、ドラマをやっている時に、ある女優さんに土下座したこともあります。でも、やっぱり魅力的。男優もいいけれど、やっぱり女優がいないとつまらないですね。女優がいなかったら、多分、芝居なんか観に行かないと思います(笑)。
札幌にも、多くの魅力的な役者がたくさんいます。主役だけが役者ではありません。色気のある、老獪な脇がいてこそ芝居はより大きな熱量を放つもの。好きな役者を応援し、新しい役者を発見する。これも演劇の醍醐味だと思うのです。TGR札幌劇場祭の「俳優賞」が、札幌演劇人にとって、憧れの賞になるよう育てていって欲しいと思います。